■デイリーインプレッション:バックナンバー 1999/09/21~1999/09/30
1999年09月[ /21日 /22日 /23日 /24日 /27日 /28日 /29日 /30日 ]

1999年09月21日(火)

うぬぼれのまったく無いひとはいない。人間は己れを愛するナルシストだから。
恋は愛されている証しを追求する哲学的行為(ときには動物的行為)であり、そのために「愛している」の言葉やサインを乱発する。大いなる誤解とともに。
私が勤めていた会社を辞めるとき、誰もがするように、最後の日、社内にいた上司や同僚の一人ひとりに別れのあいさつに回った。日ごろ美人のほまれ高かったO嬢には、とくに悲しげに「お元気で」と告げた。美しく気品があり、知性にもあふれた彼女が、涙いっぱいためて「あなたも.........」というではないか.......。行過ぎて振り返ったとき、目頭をおさえ、洗面所に駆けていく彼女が見えた。
そうか、もしかしたら、彼女は私を!とその方面はいつも謙虚な私も鼻の下がのびる。
その日の夜、同僚たちと最後のうたげにくりだす。適量入ったころ、O嬢の涙を見てしまったひとりが、それをさかなに持ち出した。「彼女はおまえが好きだったんだ!」とはやしたてる。否定はしててもしまらない顔だったろうその日の私は。
一月ほどして、その元同僚が彼女からの手紙をもって、私の新しい職場に顔を出した。恋の予感と愛妻に対する背信のおののきに心ふるえながら封をきる。
「前略、あなた様のまったくの誤解に、たいへん迷惑をしております。あの日涙が出ましたのは、コンタクトレンズの具合が悪く、目が痛くて耐えられなかったからです。くれぐれもお友達にその旨お伝えください。あなたがそんな軽いひとだとは知りませんでした。」  
それから私は石橋をたたいて渡る謙虚!です。


1999年09月22日(水)

長寿の時代に身内の死を経験しない世代が増えている。両親それぞれの祖父母が健在であることが当たり前の時代だ。これは子供にとって、愛という名の干渉を輻輳させる煩わしさもあるが、財布のひもがゆるいパトロンと考えれば多いほどよい。
肉親の喪失というショッキングな事実を経験しないことが、自分の生命を軽々しく考えてしまう一因という人もいるが、肉親といえども所詮他者の死を何回経験しても、自死への耐性ができるとは思えない。自身の死以外は、いずれも仮想現実(!)のシミュレーションのようなものなのかもしれない。
私の両親は今の尺度でいえば、どちらも短命であった。父は57才、母は60才である。
親の歳だけは越えたいと思いつつ、今年で55歳になった。あとひと踏ん張りか。
私は親不孝で、父、母どちらの死に目にも間に合わなかった。否!間に合ってはいたが、神なる存在は、その厳粛な時を罪ある私にお与えにならなかった。(クリスチャン風に)25年前、下の娘を妊娠中の妻と、夜を駆けて早朝着いた病床で、手術直後の母が私に、同居する兄夫婦との諍いをくどくどと話し続けた。いい加減にあしらって、心配ないという医者の言を疑いもしないで、自宅の祖母を見舞っているとき、母はあっけなく逝った。
手術は成功したが体力がなくて、と納得しがたい理由であった。
最期を看取れなかった悔しさより、愚痴ひとつ親身に聞いてやれなかった私の幼さに今もほぞを噛む。他愛もない愚痴は、病気勝ちだったが、気丈だった母の最後の甘えだったのだろうに。
死の経験はともかく、喪失の哀しみは知らない方がいいにきまっている。


1999年09月23日(木)

「少年よ大志を抱け!」がさかんに引用された時代があった。
「ビーアンビシャス!」の「大志を抱け!」は名訳だと思う。志(こころざし)というとき、私的な目標には違いないが、世のため人のため身を立てて尽くすという含みがあるように考えるがどうか?このクラーク博士の「アンビシャス」を「野心的な」という意味だと主張する人もいる。
アメリカは野心にあふれる国という。歴史が浅いからしがらみがない。ヨーロッパのように貴族制度もないし、日本のようにかびの生えた因習もない。誰もがチャンスと運があればアメリカンドリームの体現者になれる。野心が活力と成長のエネルギーなのだ。人のためにメイクマネーするのではなく、自身のためだ。成功したらその富の一部を、敗北者に分け与えればいい。そう、ビルゲイツのように。野心が栄誉や名声の追求より、金もうけ一本槍になった最近の風潮に、功利主義アメリカにもさすがに懐疑的な人がでてきたようだ。国民みなギャンブラーでは心の不安を増加させるだけで、もっと精神的な安らぎを求めるべきだというのだ。当然だ。鉄火場で素人が平常心を保つことなどできはしない。
日本の政府は、「国民よ野心をもて!」といっているように思う。所得税の累進性をゆるめ、お金をもうけても税金はあまりとりませんよという。銀行は預金をすすめる代わりに、あれこれ資金運用のテクニックを伝授する。401Kでは好きなサイコロを振りなさいとも。そしてこれからはお金の管理は自己責任ですよと止めをさす。外貨預金をわずかばかりして、この円高に損をしたと愚痴るわが妻の野心(!)は、政府の教育のたまものだ。
大志と野心のちがいを、あのボキャ貧と謙遜した小渕さんならどう説明するのか聞いてみたい。


1999年09月24日(金)

娘がアメリカに旅立った。二度目の長期滞在だ。
今年の5月、3年近くにわたる大学留学から帰ってきたばかりだった。新たな好奇心を満たすべく、今度はポートランドの地に学生々活を営む。彼女のこのプランは妻と祖父母の心からの賛同は得られなかったが、私の遠慮勝ちなサポートと彼女のアメリカ仕込みの強引なブラフが功を奏した。もっとも、この3ヶ月派遣社員として稼いだ給料をすべて貯金にまわしていた殊勝さも加点したが。
27歳という年齢は、結婚とか人生計画を考えたとき微妙だ。妻や祖父母が、何でもいいから(?)落ち着いてくれればいい、と思うのは世間の常識だろう。今度の滞在は3年になるだろうと娘は予告している。女の20代と30代とでは雲泥の差があると妻は力説し、幸せを逃がすのを黙って見過ごせないという。
娘は短大を卒業して、ピッタリ3年間総合商社に勤めた。そしてひとつのファッション(?)として、米国遊学(!)を選択した。まわりの者はみな、青春の思い出として、記念碑としていいジャン!と気楽に賛成した。現地での語学研修のあと、心理学専攻学生として3年次に編入できたと聞いたとき、結構やるなと見直したものだった。3年のつとめで蓄えたお金より、家から持ち出したお金の方がだいぶ多く、記念碑にしては高くついた。こんどはその記念碑の上に屋根をつけるようなものだが、今度ばかりは妻のチェックはきびしい。
妻はこれに懲りてか、下の娘がアメリカに熱い恋をしないよう警戒している。そして日本の軟弱男と遊び歩き、毎晩帰宅の遅い彼女に文句ひとつ言わない。


1999年09月27日(月)

他人に恋人を紹介してあげる親切(おせっかい)なひとを、英語でマッチメーカーと言うそうだ。マッチを製造する会社かと思ったが、このマッチはミスマッチのマッチだ。かの国でも自分で恋を掴めないひとがいるというわけだ。
実は私は、若いころトップクラスのマッチメーカーだった。紹介歴50回を誇る。
最初につとめたコンクリート製品工場が、独身野郎ばかりの欲求不満収容所で、恋人を大量調達する役目を、工場長から非公式ながら命令をうけたのだ。
近くの女子寮から、私の親類縁者まで総動員したおかげで2組ほどゴールインした。それで味をしめて、転職してからも、この趣味(!)が続く。
友人が、よく知らない人を伴侶の候補者として紹介するなんて無責任極まりないと非難したものだ。しかしその友も、私の紹介した娘と結婚し、3人も子供をつくった。
ちょうど50回目のマッチメイクに事故(?)が起きた。
二人とも高学歴、高月収の都会派カップルで、だれが見ても申し分なかった。
会わせた日に恋におちて、彼のアパートに泊まるようになるのも都会派のペースだ。ところが彼の親が大反対したのだ。彼女の実家の職業(葬儀屋)が気に入らないという。明らかに差別意識のなせるわざだが............。
それから、逃げる彼、追う彼女のサスペンスがはじまる。間に入った私の責任を問われ、両方から責められる。弁護士も介入してくるという修羅場だ。
どうにか収まったとき、もうマッチメーカーはよせという天の声を聞いた。20年前のことである。
さて、この天才的(?)マッチメーカーが、おのれの伴侶を自分でさがし出せず、結局叔父の世話で見合い結婚したことは、マッチメーカーの真骨頂だと思うが、いかがなもんでしょう?


1999年09月28日(火)

「建設崩壊」という本が業界びとの間でベストセラーになっているという。
あちこち本屋をまわってやっと手に入れ、一気に読んだ。筆者は山崎某氏なる建設業コンサルタントで、歯切れのいい文章と、大胆な物言いで読ませる。
もちろん本業のコンサルに差し障る細部の処方箋の開示はないが、気持ちをますます滅入らせるところに、かすかな希望の灯もチラと見せる筋の運びは、冷徹のようでありながら業界への思い入れも感じられて救われる。
我々コンクリート製品業界びとも、公共建設投資の減少の影響をもろに受ける。
間違いなく21世紀は、パイの小さくなるマーケットで生きていかねばならない。
一国では世界最大といわれた90兆円の日本建設市場が半減するかも知れないのだ。
どうしたら生き延びれるだろうか?この自問自答を繰り返さない業界びとはいない。
山崎氏は10の対処法を示しているが、とりわけ新しい方法があるわけではない。
結局、固定費を削減し、コスト競争力をつけるのが一番であろう。建設業は請負業であり、出来上がった商品で差をつけるわけではないのだ。
衣、食、足りた日本で住だけがまだ欧米に遅れている。小渕さんも個人の住空間を倍増なんて言っている。住宅、街環境、公園、福祉施設など新しい建設分野の可能性があるではないかと氏は説く。そして建設業者はお上ばかり見ていないで、市民や地域のなかに溶け込んで一体で活動せよとも説く。公共工事無駄論は市民の間から盛り上がってきたのだから、と。このへんは管直人氏風でもある。
氏のこの元気な声は、閉塞感が蔓延した業界びとを明るくさせるのか、それとももっと落ち込ませることになるのか? 57万社、680万人といわれる建設業界びと、と 3000社5万人位(?)かな、二次製品業界びとの運命やいかに!今度ばかりはヒトのことだと私も楽観できない。


1999年09月29日(水)

私の17、8のころ、日活映画が全盛だった。裕次郎、旭、トニーこと赤木圭一郎などアクションスターがあふれていた。学校をさぼってよく映画館に通ったものだ。
なかでも小林旭の渡り鳥シリーズは特別だった。はじまりと終わりに流れる主題歌に期待と感動で胸がふるえるほど感情を移入した。
その主題歌の作詞をしたのが西沢爽さんという作詞家だ。氏は美空ひばりや島倉千代子の歌を数多く作詞した。「ひばりの佐渡情話」や「からたち日記」など年配の人なら知っていよう。主題歌の「ギターを持った渡り鳥」をはじめ「さすらい」など旭の歌もいくつかある。
20年前のある日、週刊誌のあるページに、西沢氏が私的な勉強会を主宰しており、欠員が2名ほどでき、募集するとの記事を見つけた。氏の名前があの主題歌のメロディとともに刻み込まれていた私は、フラフラと入会希望の手紙を書いたのだ。
どういう経過かは知らないが(あとから、幹事が学校の先輩と知り、情実によるものと判明)、20名ほどの弟子の一人におさまった。
月に3回ほど、お昼から遅いときは夜半まで赤阪の小ホテルの会議室を借り切って、その会は催された。作詞の手ほどきあり、万葉集から江戸の小唄、端唄の解説ありで、氏の博覧強記ぶりには圧倒された。そして北原白秋の弟子である氏の詩心にもシビれた。下心もあって、作詞を2、3試みたこともあったが、才のないことを思い知らされただけだった。氏はなぜかそのとき作詞の筆を折っていた。
そして日本独特の死のかたち(?)である「心中」の研究に没頭していた。
古典の素養のない私はやがて飽いて脱会した。それでも2年くらいは続いたが。
数年前、氏が國學院大學より文学博士の学位を得たことが新聞に出ていた。「心中」の研究だったのだろうか? 
あの「ギターを持った渡り鳥」は私の10代の青春のあかしであると同時に、ほんのすこし心を豊かにした青年期のほのかな灯でもある。偉大な詩人というより文藝家に会えた幸運を感謝し、今宵もカラオケで歌おうこのうたを!


1999年09月30日(木)

本当の吝嗇(ケチ)にはお目にかかったことがない。
私を含めて、自分をケチだと思っている人は多いが、本当はどこかに穴が開いているものだ。服装にだけは金をかけるひとがいたり、自分の趣味に大金をはたいたり、自身が使わなくても、奥さんや子供が散財するのが嬉しいなんて奇特な人もいる。我が家をみても、妻はたいしたケチだが、それでもこっそりスーツを買ったり、甘いものには我慢できないようだ。
モノの高い安いの判断は、環境の因子が影響することが最近よくわかった。
たとえばレストランで、ステーキの高い安いは、妻は家の経済状況、強いて言えば私のわずかな給料をもとに、高いと判断するのに対し、私は会社の経費で食べた高級レストランのひれステーキを根拠に安いと考える違いである。この結果、妻は私を、身の程を心得ぬ金銭オンチと判じ、日ごろ私が飲食費にしまりがないのを嘆くのである。交際費に寄食した勤め人の飲食に対する感覚は、いままで巷の飲食文化を造ってきた。銀座、赤坂、六本木、地方のネオン街などはそうした感覚で値付けされてきた。簡単にいえば、ただ高かった。
娘と食事をすると、妻とちがうことがよくわかる。家の財布のことなど気にもしないし、接待市場も知らぬから、おいしいからこの値段は当然とか、雰囲気がいいからすこしくらい高くても、などチェックリストは細かい。その手の雑誌で情報を集めているのだ。彼らの世代はけっこうコストパフォーマンスにうるさい。
ただ安いから飛びつく妻と、交際族価格でグレードを決める夫の世代は、もう終焉を迎えつつあるのである。企業のコストダウンやリストラということも、本来の価値に見合う(価格)に収束される行為であって、残念ながら止めることができないのだろう。
でき得れば妻の金銭感覚より、娘の感覚でありたいが、なにを食べてもおいしく、味覚オンチといわれる私には、どだい無理なことなのかもしれない。


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