■デイリーインプレッション:バックナンバー 1999/09/01~1999/09/10
1999年09月[ /01日 /02日 /03日 /06日 /07日 /08日 /09日 /10日 ]

1999年09月01日(水)

その娘は、駅備え付けのラックに並べられたチラシのひとつにいた。
伸びやかでしかもまろやかカーブを描いた肢体が、小さな水着からはみ出している。
その電鉄会社と同系の遊園地プールの安っぽいチラシだ。よく見ると、寒いときに撮った写真らしく、彼女の全身に鳥肌がたっている。売れないモデルで、何でもお金になる仕事はやるのだ。私は年がいもなく、豊かだがまだ少し幼さの残る姿態と、世にでない者がもつ一種の屈折した表情に魅かれてしまった。私にまだ涸れ切れない男が残っているということだろう。
2枚ほど鞄に入れ、会社にもち返った。さっそくスキャンし、私のコンピューターのデスクトップを飾ることになった。コンピューターをオンするとき毎回挨拶することになる。
世にあまり知られない不運なカワイイ女の子、このオヤジが隠れたファンだからね!
会社のウルサイ女性連には見つからないよう気を遣ってきた。それは大変だった。
それが3ヶ月前から、我がふるさと信州の山々に代わった。彼女、藤原紀香があまりに売れ過ぎて今さわぐミーハーと一線を画したいから(!)。たしかに彼女に魅かれた私が、世の中にいっぱいいるのですね。ミーハーな私たちが。


1999年09月02日(木)

「USA Today」という米国唯一の全国紙が面白い調査をした。
これは当ネットのロス駐在員のレポートである(!)。もちろんこの駐在員まったく当方と関係なく、メールマガジンで勝手に配信してくるモノ好き(?)な人のことだが。
カルフォルニア州の一地方都市を選んで、あのマクドナルドのハンバーガー・ビッグマックを、一人あたり年間いくつ食べるか調べたのだそうだ。
驚くなかれ子供から年寄りまで全部含めて、一人あたり一年間に337個食べていたという。日曜日を除いて一日1個食べることになる。
最近の好景気を反映して、いま米国人はゆっくりお昼を食べる時間もないそうだ。
自分の机で、わずかな合間を見つけて、ハンバーガーをパクつく!さらに家に帰れば、共稼ぎをする奥さんの料理の時間がない。そこでまた!というわけだ。
彼らは文句も言わず(?)、このファーストフードによる時間の節約を選択する!
確かにマックは米国の食文化の象徴ともいえるだろう。
日本でもビジネスの分野で、マクドナルド現象がいわれるが、これはこの会社の業務の徹底したマニュアル化を取り上げただけで、別に日本人がマックを急に食べ出したわけではない。
今後、私は妻の料理に一切ケチをつけてはいけない。たとえそれがしょっぱい以外何の味覚のないものでも。少なくと手を加えているのですから!


1999年09月03日(金)

その医者に行くのはいつもためらう。
耳鼻咽喉科のその医院は、会社から歩いて数分のいい位置にあるのだ。
年は八十五歳(多分?)になる医者と、これも七十代と思われる看護婦さん二人の小さな町医院だ。建物も震度5ではもたないだろう。
この数年逃げ回っていたが、覚悟を決めて久しぶりに胃カメラを呑んだ。胃に致命的な兆候は見出せなかったようだが(本当?)、消化器専門という若い医者はのどの軽い炎症を指摘し、咽喉科に行った方がいいと筋違いのアドバイスをくれた。そこでその老医者というわけだ。
とにかくすべての動きがゆっくりだ。鼻に何かしら突っ込むのも、のどに薬をぬるのも。カルテに書くのもペンの止まっている時間の方が多い。この年齢になったら新しい医学情報なんか勉強しないだろう。薬の飲み合わせ不適合なんて考えないだろう。など失礼なことを思いつつ、しかし神妙に治療を受ける。診療室にすでに入って待っている数人の患者を診て驚いた。老人ホームのようだ。
老先生は若い人が好きらしい。ニコニコしながら、私に病気の原因、特徴、治療法を解き明かす。みんなも黙って聞いている。薬を使って、無理に咳を止めてしまうとかえって逆効果だと長々と説明する。そして最後に「咳がひどかったら、内科に行ってくださいね」となんだか分からないアドバイスで終わる。
「カラダが資本だから、無理は禁物ですよ」と今回はサービス。
お医者さんが定年もなくできるのは、水平分業がうまく機能しているから。
できないことはよそにまわせるし、できることはすべてお金になるから。とはこの先生を侮辱していることになるかな?感謝しています。


1999年09月06日(月)

6年ぶりにO氏から電話がきて、会いたいという。いつも唐突だ。
話したいことがありそうなので、指定の日時を承諾した。
彼と知り合って15年になる。外資系の省エネのコンサル会社にアドバイスを求めたとき、事業部長だった彼とはじめて会った。英語が頻繁に入った語り口がおそろしく滑らかだった。いろいろいじくりまわしたが結局商談はまとまらなかった。
驚いたことに、彼は数ヶ月後に会社を起こしたのだ。ゴキブリ駆除機の権利を買って、製造販売するのだという。私がゴキブリと親しいと思ったのか、今度は彼からアドバイスを求めてきた。気乗りもしなかったので、親しい数社を紹介してお茶を濁した。当然のごとく、事業は失敗し数千万の借財だけが彼に残った。いま考えても、彼のつくった事業計画は、彼が渡り歩いた外資系企業から習得した知識を総動員した完璧なものだったが........。
それから彼のめまぐるしい職歴変遷が始まる。米国、英国企業の日本代理人、合弁、日本企業への転職など、こちらは名前を覚えるひまもない。もちろん彼の英語が最大の武器だった。しかし海外受けする彼は、どうも日本人の上司に嫌われてしまうようだ。和魂洋才というが、彼の場合、洋魂洋才というのかもしれない。
論理より情理に弱い日本人に合わせることを拒否してしまう。
久しぶりに会った彼は61歳になるというのに、顔のつやはいい。
また新しい名刺をもってきた。イベントの施設を輸入する会社のようだ。この業界も永くなってすこしは知られていますと胸を張った。業界の海外研修団の団長を今年やりました、とも。何かしらその種の雑誌にも書いているようだ。
65歳まで現役でがんばると言いつつ独車(名称不祥)でさっと去っていった。
ああ、私も業界永くなりました!


1999年09月07日(火)

スポーツクラブなるものに通いだして3ヶ月になる。
お腹ばかり出るなと思っていたら、案の定、中性脂肪が高いという。良性のコレステロールは少ないという。医者がすこし運動をしてくださいとささやいた。
私には痛風の持病があり、あまり運動をしない方がいいですよといわれていたのに。散歩(タウンウォッチングと言いたい)に精を出したいが、妻に徘徊老人の前症候といわれおり、強化するわけにはいかない。さらに妻は、私が痴漢にまちがわれやすい好色な風貌だとも確信している。
大汗をかかない程度にと決めて、最近フトコロが苦しいといわれるあの大手スーパーが経営する近所のクラブに入会した。入会金なしのサービス月間ということでさらに安くなった。さすが中内さん、庶民の味方!
各種トレーニング機械、ラニングマシーン、自転車、スカッシュ、水泳。一通りやったらすぐ飽きた。筋肉が盛り上がる楽しみはなく、無駄しゃべりできるような友もできず、ただ疲れるだけなのだから、面白くはないのは当然だ。あいにく体をいじめて歓喜に至る悟りへの道には縁がない。
だんだんと回数が減って、いま暑い日曜日にプールへ体を冷やしにいくだけだ。
毎月の会費がもったいないからもっと行けと責める妻。散歩も暑い日が続く夏にはとても.......。のどが乾くからついつい欲しくなるビール。
そうそう中性脂肪はストレスでも増えるとか!今度の血液検査絶望的だ!


1999年09月08日(水)

私あての感謝状というものを一枚だけもっている。
学校を出てはじめて勤めた会社からもらったものだ。その会社に在職中、お役に立てたからというのなら、まあ普通だと思うが、会社を辞めてから数年後にいただいた代物だからどうも本筋ではない。
その会社には12年勤めた。怠惰な学生時代をおくった私は、社会に出てから人並みになるため、初めて専門書を真剣に開いた。成果はひいきめにみても人並みだったが、まあなんとか疎外感を味わうことなく過ごせた。
しかし、それもやがて飽いて、隣の芝生に行きたいとダダをこねるわがままな私に変わったのだ。聞く耳もたぬ当時の上司も、半年後にはおろかな私に匙を投げた。いつでも戻ってこいという無意味だが、精一杯のやさしさの言葉で送ってくれた。
転職先の新しい職場は開放的で外との交流が頻繁だった。知り合った若い学者の新技術を、その会社が取り上げる余裕がないことを口実に、前の会社につなげた。
私の少々の手伝いもあったが、会社の懸命な努力でそれが収益の柱のひとつになった。そこで感謝状ということになったのだ。
役員の居並ぶ前で、銀行役員から天下った東大法卒のインテリ社長が厳粛に授与した。型通りの一連の言葉のあと、社長はすこし微笑みながら付け加えた。
「私は今日あなたに感謝状を差し上げることは喜びではありません。そういう人が会社を去った、また我々が辞めさせてしまったということが残念なのです。在職中のあなただったらどれほどよかったか....................。」
20年前のそのとき、複雑な思いで聞いていただろう上司も今は亡い。


1999年09月09日(木)

信号が間違いなく青で交差点に入っているのに、右から車が飛び込んでくる!かどに家があって、確かに見通しが悪かった。気がついたとき、その車は2メートルほどの近きにいた。私がブレーキを踏まなかったのが、結果からみれば正解で、お尻の部分をこするように当てられただけで済んだ。
私の車は、めずらしく娘二人が買い物に同行しており、妻を含めてフルメンバーである。衝突直後のいやな沈黙のあとは女3人のかしましさが爆発。それぞれが勝手なことを言う。いずれの肉体にもいささかのダメージもないせいか笑いさえはずむ。
そして私が間違いなく青信号で入ったこと、私は正しかったことを衆議一決し、おもむろに道隅に止まっている無法車(!)に私は向かう。できるかぎりのするどい眼をして、肩からはすに近づく。
若い奥さんが運転をしていたのだ。そしてなぜか後ろの座席に若い夫がいた。
助手席にはなんと1歳にもならないだろう赤ちゃんが。奥さんは下を向いたきりおりてこない。言葉を失っている。若い夫が状況を説明する。赤ちゃんに気をとられて、信号を見ませんでした。こちらが一方的に悪いのです、と。警察から事故証明をもらい、示談を了解し合って2時間ほどの路上劇は終わった。夏の真っ盛りの暑い昼であった。
その夕刻、奥さんから電話がきた。保険会社に任せたことを伝えたあと、現場では気が動転して謝罪もできず申し訳ありませんでしたと落ち着いた声で言った。
もし運が悪ければ、あの赤ちゃんや私の娘達の将来が暗いものになることだってあったのだから。
教訓:みんなでも渡っちゃいけない赤信号!


1999年09月10日(金)

近くの女子大から、入学しませんかと私あてに案内が郵送されてきた。
これは事務局の単純な性別ミスだったが、これには送ってきてもいい理由はある。
昨年からはじまった、この女子大のオープンカレッジ(市民向け)に3つも参加したからだ。いま、多くの大学が、開かれたアカデミズムの名のもと、教養講座を市民に開放している。この東京大田舎にある女子大も、時流に乗り遅れぬようがんばっているのだ。
昔NHKテレビの英会話講師で有名だったT先生が、某国立大学を退きこの女子大の学部長になられている。その「アメリカ学」と称した全6回の講座を選んだ。学校が遠いので、新しくできたばかりの駅前にある高いビルで授業は行われた。
私の予想に反し、生徒が12名ほどでお気の毒とも考えたが、親密な授業もうれしいとも思われた。T先生は、一般市民への授業は初めてと最初は戸惑っていたようだが、進むにつれて往年の名調子にもどり、過去30年、毎年調査に行き集めたというアメリカの生活の細部や歴史をいきいきと語った。漫談「米国物語」というところだ。
最終回、私はその前日買ったT先生の著書にサインをお願いした。そして「昔よりお太りになりましたね」と余計なことをいって敬愛ぶりを示した。
授業中わかったことだが、12名の生徒中7名がサクラ(!)だったのだ。6名がT先生の小学校の同級生で埼玉県からはるばる。いつも居眠りしている一人が旅行代理店の社員であった。そしていつも3人ほど休んでいた。
生徒が集まらなくて苦労したそうだ。そういえば一回目の授業のあと、シスター服をまとった老女(あとから学長と判明)が私に「どうですか?楽しかったですか?」と心配そうに聞いていたっけ。どういうわけか今年はT先生の講座がない。


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