■亀の子コンクリート考
第五十回:寿命がきたら自然に還るのが理想 小林 映章

近年は地球的な規模で人口が急増し、経済が発展してきた。それに伴い、資源開発、工業生産、各種の建設といったようなものが激増し、地球表面はヒトと人が作り出したモノで埋もれようとしている。

ヒトという生き物が地球上で威力を振るうようになるまでは、無生物はもとより、植物も動物も自然の摂理に従って生育し、増殖し、衰退し、あるものは絶滅していった。地球という自然を保全するためには、当然自然淘汰が働かなければならない。生物の種と種の間には互いに増え過ぎたら淘汰しあう仕組みが形成されている。また動物では、ある個体が無限に生き続けないように、加齢と共に自然死が訪れる仕組みが遺伝子に組み込まれている。いわゆるアポトーシスである。このように、生物は、種と種の間に働く競合による自然淘汰と、個体の遺伝子に組み込まれたアポトーシスにより、自然を喰い尽くさないように巧みに調節されている。無機物でも、例えば岩石が風化により変化するように、無限の生命を持たない仕組みが与えられている。氷は水になることで、水は水蒸気になることで、水蒸気は結露することで、それぞれ一生を終える。

この地球で、いったんヒトがはびこり始めた時から事態は一変してしまった。20世紀に入ってから人口およびエネルギー消費の急増が起こり、地球が重い難病に罹ってしまったわけである。あるものだけが突出して増えていいわけがない。参考のために、下の表に世界人口およびエネルギー消費量の推移を示した。

人類の祖先は生きるのに必要なエネルギーだけを消費していた。それが活動範囲が拡がるに従って、消費エネルギーの使途が拡大し、総エネルギー消費量は想像を絶するほどに大きくなった。それと共に廃棄される物量も増大の一途をたどってきた。

さて、ヒトは自然の仕組みに挑戦した。ヒトの力により、自然界にいつまでも残存するプラスチックやコンクリートのような人工物が開発され、大量に作り出された。最近は遺伝子操作で不老不死人間を造ろうなどと寝呆けたことを言う者が現れているが、これなどは論外である。生あるものは没し、形あるものはいずれは壊れて自然界に還る、これが自然の理である。

しかし、ヒトは自然の仕組みに挑戦するだけあって、賢明である。万物がいずれは自然に還るべきことを理解してきた。プラスチックでは生分解性のものや物理的に分解されるものが開発されつつあり、有機の分野ではやがては皆自然に還るという理想が実現しそうである。

コンクリートは人工物の中で自然に還らないものの代表である。われわれはいま大量のコンクリート構造物を造り出しているが、この多くが邪魔物扱いされるときがこないとは云えない。不要になったコンクリート構造物は、現状では多額の費用を投じてこれらを機械的に壊してどこかに廃棄するか、骨材などに再利用する以外にはない。完全に再利用されるものであれば問題はないが、その見通しは立っていない。

個々の人々の感情の複雑さや生活の多様性を考えると、誰もが満足するような対応の仕方はあり得まい。このようなときには、自然に学ぶのが最良である。永久性のあるものの他に、ある時間存在すると形状がなくなるような性質を耐久性構造物にも組み込ませること、即ち、アポトーシスを備えた耐久性構造物も必要ではないか。ヒントはある。例えば、長時間風雨に曝されると風化する(ここで云う風化は、岩石の風化と同意語)、セメント分の少ない低質の空洞ブロック、マグネシアセメント、…… がある。ある期間が過ぎると急速に風化するコンクリートなどは夢だろうか。これから後素晴らしい知恵者が現れて、必要がなくなったら自然に還る耐久性構造物を考え出してくれるかも知れない。

われわれの自然が、どこへ行ってもコンクリート廃棄物で汚染されている状態だけは避けたいものである。耐久性構造物でも、永久に存在し続けることのない方が良いものもある。そのようなものでは、造るときに自然に還ることを考えるか、リサイクルを考えることが大切であろう。


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