■亀の子コンクリート考
第四十八回:人にやさしい歩道 小林 映章

今日、金持ち日本の主要な道路はほとんどがきれいに舗装されている。子供たちは昔の悪路などは全く知らず道路とはこうした舗装されたものと思いこんでいる。だが、アスファルトやコンクリートで平滑に仕上げられた道路が人々に対して本当に「やさしい歩道」と云えるだろうか。

きれいに仕上げられた舗装道路には、凹凸がなく、目をつぶって歩いてもつまずくことがない。雨が降ってもぬかるみにならない。勿論一般舗装では表面に水が張って飛び散るという問題がある。しかし、これに対しては透水舗装が提供されている。このようにきれいに舗装された道路は一見完全無欠である。だが、このような道路を歩いていても、子供の頃、石が所々に頭をつき出している未舗装の土道を歩いて育った者にとっては、何か欠けるもののあることが感じられる。

子供の頃、歩き慣れた田舎の土道では、どの辺に石がつき出しているとか、どの辺が凸凹になっているとかいったことは、体の中に完全に刷りこまれていて、新月の夜でも灯り無しで平気で歩けたものである。石だらけの凸凹道を高下駄をはいて歩くのも大して苦労ではなかった。このような土の道は適度に軟らかく、外力が加わると容易に変形するか、粘弾性的な挙動を示し、底の固い履物で歩いても衝撃がもろに頭に響くことはなかった。

人にやさしい歩道とはどのようなものだろう。人それぞれによって違うことと思うが、次のような歩道はどうだろう。それは、①雨が降っても水溜りや水の薄膜を生じない。②滑らない、表面が濡れていても滑らない。③暑さを吸収し、照り返しがない。④衝撃を吸収してくれて、固い履物で歩いても衝撃が頭に響かない。⑤適度に凹凸があり、全くのバリアフリーではない。このような歩道が造れないものだろうか。固い骨材を粘弾性マトリックスで結合し、透水性にして、仕上げは完全に平滑ではなく、いわばいいかげんに仕上げたものである。マトリックス材料は高耐久性のものではなく、最期は土に還えるものがよい。これはあくまでも歩道の話であって、車道は別である。

障害者や高齢者のために「バリアフリー」をというのは理解できるが、何もかも、というのは感心できない。登山道が整備されていない山に登ってみると直ぐ分かることであるが、田舎で育った人は、雨で削られ、凸凹になった山道を下るときにも、道の状態に自分の歩幅をどのように即応させるかが五体に刷り込まれているため、目で確かめ、頭で考えるのではなく、体で足を運んでいる。それに対して都会育ちの人は目で確かめ、距離を一々頭の中で計算しない限り歩けない。近頃の子供には転んだときに反射的に手で支えることが出来ず、顔で支えてしまう者がいるそうであるが、そういう人間を育てる歩道では困る。

ノンスリップで、衝撃を吸収してくれる歩道は魅力的である。下駄を履いて歩いても頭に響くことがなく、また適度に凹凸がある歩道は理想的である。このような歩道を実現させたいものである。絶対につまずいたり転んだりしない道などというものは異常である。それは反って非人間的と思われるがどうだろう。


前のページへ目次のページへ次のページへ