本コラムにたびたび登場する米国人の友D氏はなかなかの日本通だ。その知識の源は?と尋ねたら、新聞だという。日本語を読めない氏はもちろん英字新聞だ。
日本発刊の英字紙すべてを購読している。彼が持ち歩くアタッシュケースの中身のほとんどがそれら新聞だから熱心なものだ。
そんな彼だから、二人で話すときも話題に事欠かない。時には彼の方が精通している事件などがあって、恥ずかしい思いをするときもある。会う前には、すこし予備知識を充実させないと、一方的な聞き役にまわってしまうことになる。前日はNHKテレビのニュースを英語バージョンで聞いておくとすこしは役に立つ。
それでもボキャブラリーが追いつかないから、やはり聞き役となる。
先日、彼の友人がビジネスで日本にきたらしい。友人にとって初めての来日だ。
ビジネスの方はもちろん彼がいろいろアドバイスを与えた。友人は各種の忠告を聞いた後、彼に、「米国人が日本にきて一番カルチャーショックを受けることは何か?」、と尋ねたという。「どう答えたか分かるかい?」、とD氏は私に問うた。いくつか挙げてみたが、彼の答えは違っていたようだ。
「電車の中でカラダが触れても何も言わない日本人だよ。」、との意外な言だ。
「米国人なら例外なく、ソーリーとかエクスキューズミーとか言うよ。」と付け加える。来日当初、D氏はこれに衝撃を受けたという。礼儀正しく、時には慇懃過ぎるとも言える立ち居振舞いの日本人から考えられないマナーだと思ったらしい。
車内は常に混んでいて、他人に触れないで立っていることが不可能だから、マナーなんか言ってられないからね、と私は分析とも弁解ともつかぬ物言いだ。人口密度の高い国は、接触には鈍感になるのかもね、と付け加える。
D氏の分析は違う。これは団体主義と個人主義の違いではないかと言うのだ。米国はもちろん個人主義の国だから、自己と他者との峻別はきびしい。ドライな関係がお互いに決然としたマナーを要求する。それにはTPOはないのである。いかなる場所や時にも個人は失われない、と彼は主張する。
団体主義は全体としての統一と一種の様式美が基本だ。異端者ははじき出すのである。満員電車内で、他人に押しのけられたことを怒る方が異端者になってしまう日本には個人主義がないではないか、と彼のボルテージは上がるのである。
狭い空間で、他人に息がかからぬよう気を遣いつつ自分の位置を定める日本人が、他人との肉体の接触に鈍感なはずはない。米国人には信じられないラッシュアワーのスシ詰めが、口頭でのエクスキューズを無用化した単なるマナー省略形に過ぎない、と反論しようとしたが、これも皮相的過ぎると思い飲み込んでしまった。
いずれにしても、今回の選挙に見られるように、都会の労働者は、全国均等思想のツケを払っていることに不満を示している。都会では電車の中でさえ個人の主張はできないのである。
商売柄、公共事業縮減には全面的賛成とは言えず苦しい胸の内だ。
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