小渕さんの突然の病気はショックだ。
健康そうに見えたけれど、内実は糖尿病や動脈硬化や心臓病などの成人病患者だったという。62歳という年齢から考えると、この肉体破綻はいかにも早い。
スケジュールの過密さや、精神的な圧迫が限界を超えていたということであろう。
テレビで見る小渕さんはいつもニコニコで、精神的にも肉体的にも農夫のたくましさみたいなものがあって、図太い人だなと感じていたが、そうでもなかったのであろうか。ニュースを聞いたとき、瞬間、好事魔多しという言葉が浮かんだ。幸運な人と言われていたのに。
小渕さんの病気があって、私はS氏を思い出している。
彼もやはり突然の発病で、しかも無念のビジネス戦死を遂げた人物だ。肝臓ガンで小渕さんと同じ順天堂医院に入院していた。何回か見舞いに行ったことを思い出す。5月の連休前、娘さんから突然電話がかかってきた。父が危篤ですのですぐ来ていただけませんか、の言葉で急いで医院に駆けつけた。
S氏は力ない眼で私を見つめ、まだ死にたくはない、今度の総会の準備がまだできていない、と苦しそうに言った。氏はある中堅企業の社長を務めると同時に、ある業界団体の理事長の要職にもあった。団体の年次総会の心配をしているのだ。
結局それから2日後に氏は逝った。60歳であった。私はその死に目には会えなかったが、奥さんが私を身内として扱ってくれたおかげで、多くの人がくる前に氏との最後の時を持てた。それだけ私とS氏は一体だった。葬式は団体葬で盛大なものであり、私は親族の席に座ることになった。
S氏は私の大学の先輩であった。と同時にはじめて入った会社の先輩でもあった。
横柄な氏に入社早々私は腹を立て、職場が違うことをいいことに、3年間挨拶以外話もしなかった。そして、私が業務に精通するにつれて会話をするようになったのである。気がついたら学閥というナンセンスな輪の中で蠢いていたのである。
彼を出世させることが目的にもなった。過激な言動の私は彼の出世のためには毒にも薬にもなったのである。やがてそれに飽いて、私はその会社を去ることになる。引き止める彼を説得するのに半年を費やした。いずれ戻る、と空約束をしたのである。結局会社には戻らなかったが、仕事の種を提供し、内緒に業務の手伝いもしたのである。これを理由にその会社から感謝状を戴いた。
勤めていた外資系の会社でゴタゴタが続き悩んでいたとき、独立を相談に行ったら、今度は俺が面倒見るからもう辞めろ、と簡単に言った。彼はそのとき、順天堂医院に一回目の入院をしていた。
会社を設立して2ヶ月後S氏はあっけなく逝った。それでも以後2年間、その会社から顧問料として当社に一定金額が振り込まれつづけた。氏の最後の配慮であった。S氏が亡くなって15年経つ。そう言えば氏も農夫然としていた。
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