演歌の地盤沈下がひどい。私はさびしい。
テレビで歌謡曲番組があるのはNHKのみだ。CDやテープで演歌コーナーがない音楽店が増えている。需要と供給の関係といわれれば仕方がない。がファンが少ないわけではないのだ。膨大な潜在客がいる、と言いたいが、レコード会社から見れば、もはや顧客ターゲットではない。一歌手のCDを600万枚も購入するパワーは、演歌愛好層には存在しないとされる。
最近は、カラオケスナックでも、若い人と一緒だと演歌を唄うのは気がひける。
無理をして、いまの歌を唄っても、若い人に迎合するようで卑屈だ。だいたい字余りで、インチキ英語が合いの手のように入り、甘ったれた歌詞は気恥ずかしいし、メロディーも振幅だけ激しいお経のような単調な曲ばかりだ。しかもノドが詰まるようなキーばかり。唄っているプロ歌手も、うまいのかまずいのか判断に迷う歌ばかりである。
演歌は歌詞が基本と言われる。すなわち歌詩、詩なのである。詩として完成度が高いものでなければならない。これは私が言っているのではなく、わが心の師、西沢爽さんの言です。悪しからず! 曲は詩に合わせてつくる。詩の心が最高に伝わるようなメロディーとリズムを組み合わせるのである。
ひとの心はさまざまであるから、いろいろな演歌ができる。はずだ!ところが、演歌は画一化してしまった。安っぽいセンチメントにパターン化してしまった。
国民は喜びも悲しみも、そして価値観まで同じになってしまった。感情移入するストーリーがほとんど同じパターンだ。そして詩人、作詞家がいなくなった。
演歌を流行(はやり)歌と考えれば、ひとつの寿命の終焉と考えられるが、艶歌、怨歌が日本人の庶民の心の歌とみれば、多少、時代の修正を受けるが、ずっと継続するとの言を信ずる。ジャズ、ブルース、シャンソン、カンツオーネのような民族性と継続の遺伝子を内蔵した品格のものなのだ。
演歌愛好の諸君、胸をはって唄おう国民の歌を。伝統の歌を。
そして称えよう美空ひばりを、石原裕次郎(!)を!
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