先日TVで「日本の自然:上高地」を放映していた。大正池、焼岳、梓川など上高地の美しさを存分楽しませてくれた。その中で、梓川の川原に自生した柳などの植物が10年に1回程度の頻度で起きる大洪水で根こそぎ押し流されてしまうという話があった。それに続いて梓川の護岸はコンクリート構造物によらず、昔からある金網に石を詰めた鉄線蛇籠が使われていることを映していた。自然を愛する上高地においては、天然の材料を用いて護岸も行っているということである。
自然ともろに接している治山・治水には天然材料を使用したいという想いは万人に共通した感慨であろう。昔の人が行っていたように、山崩れを防ぐために芝を植え、土手の崩壊を防ぐために、竹や粗朶で出来た蛇籠を使いたいという気持ちは自然を愛する誰もが抱いている。しかし、これを行うためには自然を荒らす開発を止めて自然を昔と同じ状態に戻すことが必要である。山の中腹を削った道路を廃止し、山には植林を行い、毎年欠かさず下草刈りや枝打ちなどの手入れをきちんと行なわなければならない。だが、このようなことは空論に過ぎない。
護岸工事からコンクリートを締め出せという声が上がると、事態を軽く考える人がいて、従来の重厚なコンクリート護岸は駄目、多自然型護岸工事を行うべきだと言い、その直後に各地で水害が起きると、忽ちにして前言を翻し、今度は環境適合型工事を提唱する。多自然型といい、環境適合型といい、その内容がどんなものかよくは分からないが、要するに、一律にコンクリートは駄目、自然がよい、あるいは逆に、自然保護に気兼ねせず、コンクリートで固めることが唯一の方法といった考え方が成立しないことは明らかである。武田信玄は釜無川の本流に支流が流れこみ、しかも川の方向が変わり、絶えず水害を起こす箇所に木製の堰を設けたが、この堰は当然絶えず補修が必要であった。信玄も現在であればコンクリートを使ったに違いない。
洪水で氾濫の恐れのある川の護岸に竹蛇籠や粗朶籠を使えなどという人が現在いるとは思えない。人々は賢明である。氾濫の危険性が高い所はコンクリートでがっしりと壁を築くことを望んでいる。不必要にコンクリートで固めることを拒否しているだけである。人工が増え、それに応じて自然が徐々に変わってきた現在においては、“大きな自然の必要な箇所に人工物を適度に使う”、それが理想である。
治山・治水ではないが、西武多摩湖線武蔵大和駅で降りて多摩湖まで続く歩道の両側に柵が設けられている。その柵がコンクリート偽木製で不必要に高いのである。それが実に長々と続いている。このような光景は他所でも見受けられる。自動車が通る側は高くしても、山側は低くするとか、危険性のない箇所は低くして木を使うとか、工夫がありそうなものである。何でもかでもコンクリートを使う、というのでは人々の理解は得られないし、また、自然の中のコンクリートはみな悪であるといった考え方も通用しない。物事の本質を考えることが大切である。
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