■夢追人のコラム:1999年07月22日号
No.02:モノ造りの原点が問われているのでは? 夢追人

5月26日に、発刊間もない岩波新書小林一輔著「コンクリートが危ない」を購入し、興味にかられて一気に読了した。それからちょうど1ヶ月後の6月27日、JR山陽新幹線福岡トンネルで、コンクリート内壁崩落事故が発生した。

幸い大惨事に至らずよかったと思うと同時に、その後の調査に対する当局と一部識者の見解が一様でなく、少なからぬ不安と疑問を残す状況となっている。
「当面は危険はない!」、「短い工期で急速に施工されたため問題が多かった!」、「良質な川砂の代わりに海砂を使ったり、品質の劣るセメントや砂利を用いた可能性がある!」、ある学者は「石油ショックでセメントの供給が遅れたためコールドジョイントが発生した可能性がある。山陽新幹線は、国家威信をかけて丁寧に造られた東海道新幹線とちがい、かなり拙速構築インフラである」などなど私ならずとも背筋が寒くなるではありませんか。

それらに対し小林先生は、「今回の事故は、コールドジョイントが原因というより、きっかけだったのではないか?コンクリート材質そのものに問題があった可能性が大きい。新幹線の運行を止めても早急に原因を調べる必要がある」との著書に述べられている持論に基づく見解であった。

不思議なことに、直接工事を担当した施工者の見解が紹介されていない。コンクリートの品質の問題となれば、それを決定づける使用材料の遡及調査や、打設方法、管理システムなど業者サイドの検照も必然であり、その結果を基にしたゼネコンの公式見解も発表されていない。いたずらに不安を掻き立てることは当然避けなければならないとは思うが、どうも当局の楽観的(?)発表を素直に信じられないのは私だけであろうか?

モノ造りの基本は、与えられた条件の中で、いかによいものを造り残そうかという良心と誇りにあると思う。 ある時期から企業は、「効率の追求」の名のもと事実は「利益確保」を第一にモノ造りにはげんできたのではなかったか。そして自信をもって品質保証を標榜してきただろうか。

時代が進んでも、モノ造りを支えるのは人間的な要素である。個人の良心や判断力が、生産システムや製造マニュアルに優先することを忘れてはならないと思う。
かって建設現場で中心となってモノ造りに励んでいたのは、さまざまな工種の技能、技術に精通したベテランに体から叩き込まれる工業高校出の若い技術者であった。それは同時に彼らが、モノ造りの良心と誇りを直接教え込まれる結果となったのである。この時代に造られたコンクリート構築物は、総じて現在も立派に機能を維持している。

ゼネコンは、大学の技術系主体の採用で、いわゆる幹部候補生ばかりになり、体で技術、技能を修得させる伝統が薄れたのは、私はまったく人事政策の誤りであると思う。 現場的な技術や技能はサブコンや下請けに依存せざるを得ない現状では、現場の質が問題となるコンクリート工事では危ういことではないだろうか?
モノ造りの代表的産業であるゼネコンは、給与や待遇はよく、さらに接待交際費(社内交際費!も多いと聞く)は巨額である。果たしてそれに見合うモノ造りをしていると胸をはれる関係者はどれくらいいるのだろうか?土建国家日本を支える産業でありながら、政治屋に翻弄される業界のステイタスは容易にレベルアップされない。

産業のシステムの変換には時間がかかると思われるが、モノ造りの本質の追求とそのための人づくりは企業単位でできるはずである。私個人においても、今回の新幹線問題を身近なこととして足元を見直したいを考えている。


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