■亀の子コンクリート考
第四十四回:変化するコンクリート観 小林 映章

オランダ人が持ちこんだギヤマンを手にした江戸時代の人たちは、その美しさに打たれ、いまならさながら宝石でも扱うように大切にしたと思われる。明治維新以降西欧の文化がどっと入ってくると、かつての「宝石」もただのガラスに成下ってしまった。第2次大戦後、ガラスや陶磁器しか知らないところに、それらとは全く異なった、軽く柔軟で丈夫なプラスチック製品が入ってくると、人々は我先にとそれにとびつき、新しい宝物として大切にしたものである。しかし、そのプラスチックも大量に出回るにつれて宝物の地位から転落し、現在では逆に環境を汚染する悪の代表として扱われている。

ガラス製品もだんだん身近に多くなるとそのよさが分からなくなり、ステンドグラス、カットグラス等々といったような、より変わったガラスに接しないと大切にしようという感慨が生じてこない。プラスチックに至っては、どんなに形を変えても、安物の代表として使い捨て製品の中心をなしてしまう。

コンクリート構造物はどうだろう。木材や漆喰に慣れ親しんだところにコンクリートが持ちこまれたときには、人々はその強さに驚き、その姿に美しささえ感じ、コンクリートを用いることが文明のシンボルのように思ったに違いない。木の橋に代わってコンクリートの橋が掛けられたときの住民の誇らしさはおして知るべしである。戦後文化住宅と呼ばれる木造のアパートが数多く建築されたが、コンクリートアパートに住む人たちはかなり優越感を味わったと思う。そのコンクリートを見る目も時代と共に変化してくるのは如何ともし難い。

地方を見ると、自然に埋もれて生活している人々のうち、少なからざる人々が自然は素晴らしいとか、特別に自然を美しいと感じることもなく、それどころか、ぱさぱさに乾いて喧騒な都会にあこがれ、自分を幼いときから慈しみ育ててくれた自然から機会があれば逃げ出そうと考えている。古代から続く自然の中に、近代的な家電製品や都市部の人たちよりも多い数の自動車を持ちこみ、改変した自然でないと受け入れない。そのような地方でも、山紫水明の地に強度一点張りの、むき出しのコンクリート構造物が構築されると、昔とは異なり拒否反応を示す。見飽きた人工物が侵入すると、自然の美観を損なうものとしてそれを阻止しようとする住民パワーが台頭する。

一方、都市部を見ると、コンクリート構造物などの人工構造物に占拠された人々が自然を渇望している。自然が完全に失われてしまった都市部では、人工物に出来る限り自然の面影を映して欲しいという声が生まれてくる。都市部ではコンクリート構造物が一般的であり、その姿が問題になる。コンクリート表面に天然物があるだけで安らぎを感じる。しかし、そのような感じも、それが増加するにつれ徐々に変化する。

人は、本来、変化のない生活に飽き、特に現代人は変化がないと耐えられないようである。景観コンクリートも徐々に変化を持ちこまないと人々に飽きられ、凋落の運命をたどることになる。


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