■デイリーインプレッション:バックナンバー 2000/05/01~2000/05/10
2000年05月[ /01日 /02日 /08日 /09日 /10日 ]

2000年05月01日(月)

最近は5月1日のメーデーも黄金週間の陰でかすんでいる。

私の20代のころは、この日は労働者のクリスマス?だったように思う。もとからノンポリだった私は、こうした労働運動に何の関心もなかった。がそれでも自分が労働者であることの自覚をすこしばかり促されたものである。

あの当時ターゲットとされた資本家や経営者は巨大で、権威の権化のような階級であった気がするが...........。国民の中流化という所得の平衡化が進んだ結果、そうした階級はもはや中流クラスの上部という位置に落ちてしまったのである。

民主主義が進み、搾取する側とされる側とが分別できない時代になったのだろう。
会社員と会社役員との職業区分に何の意味があるのかとも思う。サラリーマンの論功行賞による上がりが役員とすれば、両者の職種に確たる差があるとは思えず、出世の経過を公表するにすぎない。さらに執行役員などが出現してくると、経営者とはいったい何物ぞ?という疑問が湧いてくるのである。社員の地位が上がったというより、役員のステータスが下がることによって全社で平衡化がなされたのである。

亡くなった司馬遼太郎の著作を好む人は多い。歴史の絵解きが何とも言えぬ爽快さであると語る友もいる。確かに氏の博覧強記と縦横な歴史解釈は、私の貧弱な脳みそを嫌悪するに至るほど鮮やかである。小説家というより、もう思想家といっても良いのかもしれない。そして、ほとんどの日本人が氏の思想の傘の下にいるのかもしれない。それほど国民的だ。

名前は失念したが、司馬氏について、ある企業の経営者が言ったことが私の心に残っている。「思想家としての司馬遼太郎は嫌いだ!彼は一人の人間の力を過大に評価しすぎる。人は時代の波に動かされているにすぎないものだ。」と、人に焦点をあてなければ成り立たない小説と思想の違いを訴える。「氏の著作を小説と見ると、艶に欠け講釈的で面白くない」とこれも辛らつだ。

司馬史観などと言われる氏の思想に異を唱えようとするのは、勇気と知識がいるに違いないのに、ずいぶん元気な人がいると思った。私も司馬氏のしばしば!教条的な語り口にすこし違和感を持ったこともあるので、この勇気ある経営者に快哉を叫びたい。個人が歴史を変えたことなぞないと思うのだ。

指導者が小粒になったというより、もはや指導者など不要で、ただ飾りだけの代表がいればいいという現代の組織は日本固有のものだと思う。しかるに司馬史観に影響された我々は、現世に、傑出した指導者を待望しているのである。彼らは歴史の中にしかいないし、司馬史観の中にしかいない。

明確な指導者予備軍を持たない我々に、そうした指導者はどこから出現するのであろうか?いや、指導者家業の世襲国会議員の中にでもいるのかな?


2000年05月02日(火)

田舎の老夫婦に難題が持ち上がっていた。

連休の前半は田舎に住む妻の両親の元で過ごした。私とはもうかれこれ30年に及ぶ付き合いで、遠慮のない関係にはなっている。彼らの最後のケアは私と妻ですることは暗黙の了解だ。二人とも、元気なうちは老夫婦だけの方が気楽でいい、と気丈だ。

駅の近くに建つ彼らの家が、県と市の都市計画で道路に一部引っかかるという。以前から話だけはあったが、今年着工などとつゆほども思わず、まだ4、5年先と見ていたのだ。このところ役所も金回りがよくなったようだ。

建ててから一部改築はしたものの、家はもう40年は経っていて寿命は来ている。
86歳の父と77歳の夫婦に新築の家は不要であろう。長年住み慣れた地を離れるとしたら、心中安らかならざるものがあるに違いない。近所の人たちと市会議員を巻き込んでの計画見直しの嘆願に忙しそうだ。両親の本音は、よい値で買い上げてもらって、私たちと同居もまんざらでもないというもののようだ。隣家の猛反対ぶりに、本音は言えないもんね、と世慣れた母はしたたかだ。父は決着がつくのにまだ4、5年かかろう、それまでに俺は死ぬ、と落ち着いている。私と妻は、いつでもこちらにおいで、と心やさしい!かぎりだ。言うは易し!

日本の都市計画論議に疲れた翌日、二組の夫婦は近くのひなびた温泉へと出かけた。私の実父の生家に近い温泉は、今が盛りの桜の中にあった。東京に比べたら信州の山場はだいぶ寒いのである。それでもその日、初春の温かさに恵まれたのは幸運だった。

サラリーマンの生活を送った父も母も、同じ信州の農家の出だ。旅館の周辺での散策中に見つけた、よもぎやふきのとうに夢中になる。母と妻はビニール袋一杯のよもぎを採った。父は野草や木々の新芽に目を輝かす。から松の芽吹きの美しさを私は初めて知った。

老父母と妻を残し私は、実父の生家が土地の一部を提供したというゴルフ場の周辺を一人散歩する。農家の三男として生まれた実父はこのあたりを、薪でも背負いながら青雲の志に燃えた少年時代を過ごしたに違いない。明治は遠くなりにけりである。その父もここを見下ろす遠くの山の中腹に眠る。

信州名物と言ってもいい、鯉の洗いと甘露煮に父母は舌鼓を打つ。素人はこの味が出せないからね、と満足げだ。老人を喜ばすにはたいしたお金がかかるわけではない。こんなものでいいのだから。

母が、お前たちも二人になったのね、と嘆息した。私達夫婦の愚かさを責めているのか、同情してくれているのか分からぬが、寂寞の情に通ずるものがある。それが務めだから、と答えた私にただ父と母は頷いた。

谷間には寂しくホトトギスが鳴いていた。父と母の心は、東京に出てくるかも知れないという不安と期待に揺れ動く。私は、想いが故郷の山里に呼び戻されていくようなノスタルジーに胸が熱くなっていた。


2000年05月08日(月)

我が家の、猫の額よりまだ狭い庭にも春がきた。

家を建てたとき、庭のあちこちの表土を掻き集めて盛り上げた築山に、二束三文の雑木を植えた。やせた土地の上、陽も十分あたらぬのに、何を栄養源として育つのか、これら雑木は背丈だけは大きくなった。私に似て、日陰のもやし風にヒョロリとしている。犬は飼主に似ると言うが、木が植え主に似るとは聞いたことがない。

それらが一斉に芽吹き、あっと言う間に若葉となった、ほんの2,3週間ほどのわずかな時間だ。冬の間じっと待っていて、暖かい太陽の日差しに合わせてすかさずオーバーコートを脱ぎ捨てるようなものだ。

成長とは、毎日毎日すこしづつ伸びていくようなものではなく、じっと溜めていて、あるときスっと背伸びするようなものかも知れない。そのくり返しなのだ。
蒔かぬタネは生えぬが、蒔いても雌伏のときがなければ十分な成長はできない。

私の人生はその点雌伏ばっかりで、立つときがなかったような気がする。日の当たらない場所ばかり選んで歩いてきた気がするのだ。徳川家康の言とされる、人の一生は重い荷を背負いて坂道を歩むがごとし、は雌伏ばかりが人生さ、と取れるのである。その日?が永久に来ないのが私のさだめと言えようか。

日本人の出世は、長い階段を一歩一歩上り詰め、最後に至るのをよしとする。若い時の大出世や大抜擢は本人や周りの不安や過剰反応を引き起こす。そして過大に注目された当人は、大抵、平常心を保てず自滅していくのである。早熟な天才は大成しないのが一般だ。

40年はある仕事人生において、たまたま自分の身につけた能力と時代がすり合う期間はわずかなものだろう。現代のビジネスはこの一致が厳しく要求される。
これは本来年齢に関係ないものだ。エネルギーを蓄えた雌伏が、若いときにはじける人があれば、中年になってからの人もいよう。そして、この能力と機会の邂逅が継続する時間も短いのである。

たまたま右肩上がりの経済では、貧弱な能力でも与えられた機会に擦り寄ることができた。私達の時代は多少の仕事上の知識と、人並みのコミュニケーション力さえあれば生きてこれた幸せなときだったのではないか。年功序列とは雌伏のときをゆっくり長くとるように調整し、最後に花を持たせる敬老主義だ。それが幸いした。

ITビジネスにおける若き事業家の成功は、能力と時代のベストマッチのたまものである。その能力はほんの数年の雌伏が開花したもので底は浅い。がしかしそれらは、我々中年が営々とルーチンの中で積み上げた知識より軽いとは誰も言えない。

経験より知識の時代が来たのである。そして取り残された我々は単純労働者に落ちるしかない。それにしても庭木は毎年若い。毎年新しい芽が出てくるのである。


2000年05月09日(火)

友情には都会型と田舎型に別れるのではないかと思う。

もっとも、現在は田舎の都市化が進み、都会と田舎の区分けが不鮮明になってはいるが。私のその区分は、少年時代の認識がそのまま先入観念となって残っている遺物のようなものだ。そしてそれが故郷へのノスタルジーにつながっている。ウサギ追いしかの山や、小鮒釣りしかの川が心の原風景にある。

私の友情は押し付けがましくおせっかいなものだと思う。それゆえ友の淡白な反応は物足りなく感じてしまう。田舎の隣近所との濃密な関係に似たものだろうと思う。都会の「粋」な関係や君子の水魚の交わりに憧れはすれど、粘着質な交遊でないとどこか不安だ。

大学時代、好きな友から、君は友情に厚い(暑い?)のは分かるが、なんだか鬱陶しいんだよね、と言われショックを受けたことがある。そして、その友は東京出身だった。

爾来、人を追わぬことを座右の銘とし、ニヒルに生きることを誓ったのである。が、現在でもおせっかいの風聞はついてまわっているらしい。さすがに、お人好しという蔑称?は卒業できたようだが。生意気な妻に言わせると、私の田舎者は死ぬまでの田舎者だそうだ。私と生きる彼女こそ典型的な田舎者であることを愚かにも知らない風だ。

なぜ私が田舎型友情であるか? それは下記のエピソード(実話)が好きだからである。そしてそれが偉大な田舎者、米国人、の「友情」でもあるからかも知れない。

第一次世界大戦の時のことである。
ジムは後ろの塹壕から、先にいた親友のケリーが銃撃にあって倒れたのを見た。
ちょうど前の塹壕との中間地点だ。他の兵士は前の塹壕に逃げ込んだようだ。
彼一人だけが横たわっている。敵はまだ銃撃を止めない。
ジムは、指揮官の中尉に、彼を助けに行きたいと訴えた。
「行きたければ行ってもいい。が、彼はもう死んでいるだろう。そんな無駄なことをなぜ?」
ジムは返事もせず、塹壕を飛び出した。

奇跡的に、銃弾の飛び交う中、彼はケリーを肩に担いで戻ってきたのだ。
しかし、その甲斐もなく、ケリーはもう死んでいた。
「だから言ったろう、無駄なことだったのだ。命をかけるのは馬鹿らしいことだった。」
中尉はあきれたように言った。
ジムは答える。
「無駄ではありませんでした。私が彼のところに着いたとき、彼はまだ生きてました。」
「そして彼は言ったんです。」
ジムは満足そうに彼の言葉を復唱した。
「ジム!君がきっとくるだろうと俺は思っていたよ。」
(米国版ちょっといい話チキンスープより)


2000年05月10日(水)

最近、人生は許すことのくりかえしなのではないかと思う。

他人は自分の思い通りにはならない。それどころか、時には自分をいじめるために存在すると感じられることさえある。さらに、自分さえときどき自分を裏切る。
自分は思うほどデキないし、そんなに強い心をもってはいない。
結局はそれらを許すしかないのである。不本意にそうすることは自己のプライドが傷つくことにもなるから、「諦観」という思想の言葉で高級化しようとするのである。まあ簡単に言えば、あきらめこそが人生よ、であろうか。

私は毎朝起きるとき、今日も一日許しまくろうと誓うのである。私を傷つけ、ないがしろにし、踏みつける諸君を許そうと誓うのだ。そして眠りにつくとき、そうした諸君を許せず、腹を立てつづけた自分に気がつき、自分自身が許せない感情に囚われる。これは小さくないストレスである。

私が学校を卒業して入った会社で、たまたまいた学校の先輩に少なからず目をかけられた。あえて言えば、企画マンとして重宝されたようだ。
10年ほどでその会社を辞めてからも、先輩との交遊が続き、新規事業の立ち上げには、新たな勤め先をないがしろにして手伝ったのである。この事業の立ち上げの成功も一助になって、先輩は昇進を果たしたのである。

新規事業は、タネを生み出した人より、実は、育てる人の方がたいへんなことが多い。そして育てるためには、たくさんの人が関わるから個人の功績は埋没し勝ちだ。都合上、プロジェクトのリーダーが功績を代表する。
次の新しいタネを私が持っていったとき、先輩は、今度は自分がタネ元になろうとしたようだ。私の企画を聞いたあと、社内に、私に対する緘口令を敷いて独自に進め出した。事情を知らないある人がうっかり漏らした言から、私はすべてを知った。先行して下準備を進めていた私は、協力先に謝りに回る。

爾来、先輩とは絶交状態に入る。今までの蜜月からこんな状態では、周囲に格好がつかんよ、と先輩から時々泣きが入る。が、私は頑固だ。最初の新規事業はもう既に立派な柱となり、未だ私も関わっている。時々会社に顔を出しても私の態度はそっけない。今度の私の!新たな企画も、普及のための協会まででき立派に立ち上がっている。私の手の届かないところで!腹が立つのである。

3年後に、見かねた共通の人生の大先輩が、すべてを水に流す手打ち式を設定した。しかし、割烹で酒を飲みながら両者とも自分の正当性を並び立てていた。
それから以後、この件には触れずに付き合いは続けたのである。

その先輩が60歳で現役の社長のまま亡くなった。順天堂医院に死の数日前彼を見舞う。その頃私は、外資の合弁企業を辞めるか否かで悩んでいた。
「お前には世話になった。今度はオレが面倒をみる。もう辞めろ!」と死ぬ気配を見せず決然と言った。私の心労を見ていられないという。
死後、その会社から、私と仲間が起こした会社に2年の間毎月、当時としてはかなりの額が顧問料として振り込まれたのである。

先輩は、私をないがしろにした自分自身を最後まで許せなかったにちがいない。
そして、私は、彼をそう思わせてしまった私の狭量をいまでも許せない。かくして私は、他人を許さないほどの権威があるエライ人間ではないことを、毎朝自分に言い聞かせるのである。


前のページへ目次のページへ次のページへ