■デイリーインプレッション:バックナンバー 2000/04/21~2000/04/27
2000年04月[ /21日 /24日 /25日 /26日 /27日 /28日 ]

2000年04月21日(金)

誰でも恥ずかしくて言えない話がある。

このデイリーインプレッションを書くようになって、自分の秘密を防護していた塀がずいぶん低くなった。ときおり自分でも筆がすべりすぎるかなと後悔の念を持つことがある。さらに、偽悪にも偽善にも、さらに道化にも陥らない、心のストリップは存外むずかしいものと初めて知ったのである。このコラムが終了したときは、私はもしかしたら、表道を歩けないのではと本気に心配している。かくなる上は私のツラの皮がいっそう厚くなることを願うしかあるまい。

今の時代は「清純」という言葉は死語になっているようだ。その言葉につきまとう嘘っぽさに皆シラけてしまうのだろうか。清純派といわれた女優やアイドル歌手が、すぐ男とドロドロした関係になったり、ヘア丸出しの写真集など出版するからかも知れない。いずれにしても清純の定義はあいまいであり、現代の暴露メディアがその言葉のカリスマ性を奪ってしまったように思う。

吉永小百合こそ清純という言葉で形容してもいいただひとりの人、と私は信じているのである。私は元来サユリストではなかった。日活映画を盛んに見ていたころは、彼女は可愛くはあったが、すこし暑苦しくスッキリ感がなかった。

15年前彼女と喫茶店で会った。赤坂のTBSの真ん前の芸能人をよく見かける店だ。
当時私が勤務していた会社が近くにあり、その店にはよく行ったものである。たびたびテレビで見かける俳優や歌手に出会うことはあったが、吉永小百合ほどの衝撃を感じることはなかった。

その日彼女は和服を着ていた。ひとつ席を置いて斜め前に座った彼女の匂うような美しさに我を忘れたのである。そのころ彼女は40歳ぐらいであり、伴侶がいることはもちろん承知していたが、思わず清純という言葉が浮かんでしまったのである。ぴんと背筋を伸ばしたまま優雅な微笑を浮かべつつ30分ほどそこに座っていた。時折私と視線が合うと、目でわずかに挨拶をしてくれる(もちろんこちらの一方的解釈)ようである。彼女のいる一画だけ確かにスポットライトがあたっているような明るさがあった。

当時私は社長一派との抗争に敗れ、親会社に戻るか退社するか苦悩の真っ最中であった。合弁会社で勝手にやってきた私に、親会社での処遇がいいはずがない。
退社をしたとこであてもないのである。進退極まっていた。

吉永小百合に決めてもらおうと考えついたのだから恐ろしい。
しかし、彼女に直談判するほどの心臓は持ち合わせていないので、トリック(?)を使うことにした。辞める、と心に念じて彼女を見て、彼女と視線が合ったら答えはイエスということにしたのである。親会社の戻る、ときも同様だ。

この結果が現在なのである。辞める、に彼女がにっこり笑ってくれた!のである。

この話は人に言えないのである。とくに会社の仲間に言えない。ビジネスの決断はロジカルであれ、と日ごろ講釈をたれるからである。そして家族にも言えない。
なぜならこれは、いま流行りのストーカーそのものだから。

邪心のない聖なる決断を与えてくれた吉永小百合、かくして清純の人なのである。
離婚などユメユメ許されまじ。


2000年04月24日(月)

子供が家を出ての夫婦二人だけの生活は、形だけは新婚時代と同じだ。
しかしながら、年老いたのは容貌姿態ばかりでなく、精神構造にもはなはだしく疲労をきたしているので、感情のやりとりにスムーズさと弾力性が欠ける。

新婚時代の、お互いの感情をシェアし合おうとする共感型から、今は、自分の思いは己れで処理する、自己完結をよしとする共生型のような気がする。これは他人にも分かってもらおうと思うことが、自他にストレスを生じさせる一番の原因と、半生を通じて体得したからであろう。私はエゴイストでありながら、他人にはそう思われないように無駄な努力をしてきたのである。妻に対してさえそうであった。今はエゴイストであることを隠さないのである。それにはしゃべらないのが一番良いと数多の失敗が教えてくれた。

さて、今日はいかにあなたがエゴイストであるかを証明するための例題を示そう。
数日前の新聞にあった、内田百間(注:正しくは「門」に「月」。JISコードにない文字のため「間」で代用させていただきます)なる文士に関する記事中のものである。私はこの御仁の名前は知っているが、作品はひとつだに読んだことはない。いにしえの人である。この難問すでにご存知の方はお許しあれ。

むかし3人の男が一宿を求めて宿屋に入った思し召せ。前払いの求めに応じて一人10円づつ払ったのである。しかし彼らは、3人で30円の宿代はいかにも高い、としつこく交渉をしたのだ。宿側はその粘りに負けてとうとう5円引くことになった。しかし係りの人が2円ピンはねをしてしまい3円しか返してくれなかったのである。

さてそこで問題だ。係りの人が2円ピンはねしたのだから、3人分の27円と合計して29円しかならない。1円がどうしても足りないのである。どこにいったのでしょう?というのが問題だ。

記事によると、内田先生は死ぬまでこの1円の行方が分からなかったのだそうだ。
そして、この記事を書いた記者も、今もって内田先生同様分からないのだと正直に告白していた。二人ともエゴイストにちがいない。

さて私は、正直に告白すると解答にたっぷり一日はかかってしまったのである。
多分賢明なあなたはたちどころに答えを出してしまうでしょうね。

さて、金銭感覚を触覚にしてエゴイスティックな人生を渡っているわが妻は、決してこの問題は解けまいと信じるのである。


2000年04月25日(火)

たしかに先週は悪い週だった。

体調不良、兄の脳梗塞、友人のお父さんの告別式、と続いた先週、金曜日にとどめが来た。

朝6時突然の電話で起こされる。米国にいる上の娘からの電話だ。「いまたいへんなことが起こっているの!」と回りくどい言い方だ。最近彼女の言いまわしがすこしスムーズでなくなっている。日本語をろくにしゃべっていないのが原因だ。

「わたし、昨晩下痢がひどくて、吐いてしまうし、熱もあって、意識ももうろうとなるし、救急車で運ばれたの」「食中毒だと思うの、でも一緒にランチを食べた子供たちはなんともないって言うし、医者は胃潰瘍ではないかというの。今は家に帰ってきたけれど、あらためて病院で胃の検査を受けろといわれたわ」「今は、下痢の方はすこし納まったけれど、でも何か食べると胃が痛むわ。」

要は急病の事後報告だった。たいへんな時期は過ぎ去っていたので、私も妻も取り乱すことはなかったが、それでも心配は払拭できない。受けた忠告通り胃の検査をするよう説得するが、バリューム液を半分も飲めない娘はいい返事をしない。
お金もかかるしとグズグズ言っている。「救急車と一緒にパトカーと消防車が一台づつついてきたの、それが有料でとても高いの」と、パニックがのどもと過ぎた娘は、お金のことで恨めしそうだ。日ごろけちな妻は、病気のときにお金のことを考えちゃいけないよ、と不思議に鷹揚だ。その日、時間を置いて妻と私は交互に娘に電話をいれ、うるさがられるのである。うるさがられてもいい!一人ベッドで死なれるよりは、と親ばかだ。

というわけで先週はどっと疲れたのである。そのストレスをコンプロネットのパートナーT君にねちねちとぶつける愚を犯した。リニューアルしたトップページの些細のことに難癖をつけたのである。彼は鈍頭のバカ親爺を説得する身の悲哀を感じたにちがいない。かくして自分のバカさ加減にますます落ち込んだのであった。

救われぬ反省ほど気を滅入らせるものはない。

それにしても女は強い。さらに女房は強いのである。反省することがないから強いと言える。妻に、おまえは人生において反省するということがないだろう、と皮肉を言ってやったら、反省するような愚かなことはしないもん、とのたもうた!

やはり男は自省心で女に負けるのである。


2000年04月26日(水)

桜も散ってすっかり春めいてきた。

しかし妻の花粉症に冬も春もないようだ。さかんに、口を閉じたら死んじゃうよう、と口をパクパクさせている。まるで金魚だ。確かに二本の鼻の孔が一日中みごとに詰まっている。飯を食らうことと呼吸をすることで口は八面六臂の大活躍だ。お気の毒と言うしかこの心優しき夫にはないのである。杉花粉がすんだら桧でいま真盛りということらしい。

旅行にはいい季節がきた。5月のゴールデンウィークはもうすぐだ。私は妻と故郷の信州に里帰りをする。年老いた妻の父母の相手をする予定だ。数日過ごしたあと、今度は我が家に来てもらい東京の春を味わうという寸法だ。お互いの家を行き来するだけの実に経済的な休日の過ごし方なのである。一日くらい日帰りの温泉でもいくか、と財布の紐のきつい妻にしてはいつになく寛容である。

34歳から5年ほど私は出張に明け暮れていた。国内がほとんどで、北海道から沖縄までほぼ全域を歩いたものだ。当時勤めていた外資系企業で、米国の商品を建設省や公団、県などに売り歩いていたのである。正確にはそれぞれの公共建設事業に商品を使ってもらえるようPRをしていたのだ。仕事はちっとも楽しいことはなかったが、旅はそれなりにエンジョイしていたように思う。ほとんどが一人旅で、気兼ねがなく自由であった。販売といっても新製品の市場開発の意味合いが強かったのでガツガツすることもなかった。成果は聞くだけ野暮だ。日本の役所に国際人がいるわけはない。出張費の膨大な無駄使いであった。

一人旅をしたおかげで孤独の時間をつぶすのがうまくなった。食事や酒を呑むのも一人で楽しくやれるようにもなった。後年、毎年のようにあるグループと海外旅行をしたがどうも自由がきかなくて窮屈と感じた。ひとりゆっくり街を歩きたいという思いがあるのだ。

あるときを機会に妻や娘と旅行をするようになった。そして旅程の途中でかならず喧嘩をしたものだ。観光場所の選定でもめたり、私の計画性のなさを責めるからだった。趣味のちがいと言うしかない。

先だって、最後の一人旅のつもりでスペインを旅した。その顛末は以前書いた通りで、本当にもう最後にしろよという神の啓示あったように思う。一人旅は心身ともに若くないとできないということだ。仏文学者の河盛好蔵さんがいっていたという、若いときに旅行しなければ年を取って話がないでしょう!には同感。そうすると、これからの旅行は冥土のみやげということになるか。


2000年04月27日(木)

電車の吊り公告に中年男をドキリとさせるものがある。

曰く、「60歳からの親友はいるか?」とか、「中高年こそ恋愛すべきだ!」など、親密な友人や女友達を勧める類のものだ。我々中年は実にあいまいな地点にいるのだと思う。友と語るには人生を知り過ぎ、悔悟や懐古に堕するばかりで建設的ではないし、親密よりも淡い交わりに友の存在を意識するのである。さらに恋愛のエネルギーである情炎は、心や身体の何処かに消し忘れた炭のように残ってはいるが、世間の常識がせっせと灰をかぶせて燃え上がらないようにしている。かくして中高年は表面上の成熟の裏に、不安定な心情を隠しもっているのである。
電車の吊り公告は、中高年の自信のない悟達と未燃焼のエロスを哀しく刺激するのである。

私は人生の喜怒哀楽量一定説を信奉するものである。ひとりひとりが一生に味わうそれらの総量はみな等しく同じだとするのである。まあ簡単に言えば、太く短くも、細く長くも、人生の味わい量は同じになる、との思想だ。
50歳で死んでも、100歳の長寿を全うしたとしても幸せに差はあるまいということでもある。
こうした考え方を採りたいのは、自分の身内や友や先輩があまりにも早く現世を去っていったことに理由があるのかも知れない。彼らの生物学的には短い生を不運とするには哀しいではないか。

脳梗塞で倒れた長兄を妻と見舞った。6年ぶりに見る兄はもうあの兄ではなかった。
あまりの変貌ぶりに愕然とする。脳のメモリーが効かないようで、分かった話が数分後にまた未知の話に変わるようだ。同じ話を繰り返さなければならない。同行してくれた姉夫婦と妻が待合室で一休みしているとき、私は眠っている兄に一人別れを告げたくてベッドに立った。突然眼を開けた兄が手を差し出して私の手を取った。そして私の名前を呼び、ありがとうと言った。何も言えぬまま私は兄の手を、妻が帰りの時間を告げに現われるまで握りしめていた。
姉夫婦が近くの駅まで送ってくれた車中で外を見ながら私は泣いた。妻はそれを見ていないふりをしてくれた。

母の異なる兄が若いころ私に手紙をよこし、実はそれが私の母に愛情を表現した内容だったあれ以来、彼のために泣いたことはない。あの時のように兄は弱く、素直で哀しかった。
姉のつれあいは真面目一方で兄が時々、何が面白くて生きているのかとからかったものだ。今年72歳になるそうで健康そのものだ。一方の兄は享楽的な半生を送ってきて身体はガタガタだ。これも人生の喜怒哀楽量一定説を証明するものと思う。兄のためにそう考えたい。

最近私の寿命を推測するのである。42歳まで享楽派であったが、以降ストイック派に変わった。どう修正されるのであろうか?妻によると、40歳までにすべて決まるから、私は短命であるとのキツイご託宣であった。


2000年04月28日(金)

毎朝、通勤途中で私に似た人に会う。

私の家から最寄りの駅まで歩いて朝は15分ほどだ。帰りが20分は優にかかる。
それは私の家が山の中腹にあるからだが、このことは健康によさそうだ。朝飯を食べた直後の長い運動はあまりよくないらしい。

毎朝、駅までの道すがら会う彼は年恰好、背格好、さらに頭のはげ具合からメガネのかたちまでよく似ていると思うのだ。顔のそれぞれの部品は向こうの方が上品にできているようだが、なんとなく全体のイメージが近い。
向こうも気になるようで、毎日じろっとにらみをきかしていくが、私同様に善良そうな?中年男だ。もしかしたら同じ痛風患者かも。

妻が脳梗塞の兄を見舞ったとき、頬がそげ、とくに面だかが目立つ兄の相貌を見て、「あなたにそっくりになったわね」と言った。いつもふくよかな兄の顔がやせたら貧相な私になったと言いたいらしい。血はつながっているのだからもちろんさ、と答えた私に、異母兄のこだわりがあったのを妻は知っている。

高校生のときスポーツ刈りをしていて、橋幸夫とか川津裕介(知らないでしょうな!)に似ていると言われ、肩で風切って歩いたものだ。一番似てほしかった石原裕次郎には身長だけは匹敵したが、部品と構造の違いに涙を飲んだ。

この世に自分とうりふたつの人が3人はいるという俗説がある。私はまだその一人にもあったことはない。私の友人によると、私の顔は中国人に多い顔で、北京の街角でよく見かける顔だそうだ。昔、通っていた中国クラブのホステスが、「あなたは中国に行けばハンサムよ」とよく言っていたっけ。そういう意味だったのだろう。あの時、素直な私は無邪気に喜んでいたが。

根暗のK君が先日、佐高信とあなたはよく似ているね、と電話で言ってきた。あの毒舌で名高い評論家だ。K君と同じ大学の出身でもある。私のエスプリのきいた話がかい、と尋ねたら、いや、顔が、答えた。これにはさすが嬉しくない。佐高さんに悪いが、あの手の顔はハンサムには程遠い。もっといい人いないの、と文句をつけてやった。彼は私が喜ぶものと思ったのかも知れない。

家に帰って妻にそのことを言うと、しげしげと私を見て、「そういえばそうね、確かに似てるわね」とのたまった。
妻は若い頃、伊藤ゆかりに似ていると言われたのが自慢だ。「そういえばおまえ、肥って二葉百合子に似てきたみたいだ」と腹いせに返してやった。

日本人だものみんな似たところあるよね。ところであなたは誰に似ていますか?


前のページへ目次のページへ次のページへ