誰でも恥ずかしくて言えない話がある。
このデイリーインプレッションを書くようになって、自分の秘密を防護していた塀がずいぶん低くなった。ときおり自分でも筆がすべりすぎるかなと後悔の念を持つことがある。さらに、偽悪にも偽善にも、さらに道化にも陥らない、心のストリップは存外むずかしいものと初めて知ったのである。このコラムが終了したときは、私はもしかしたら、表道を歩けないのではと本気に心配している。かくなる上は私のツラの皮がいっそう厚くなることを願うしかあるまい。
今の時代は「清純」という言葉は死語になっているようだ。その言葉につきまとう嘘っぽさに皆シラけてしまうのだろうか。清純派といわれた女優やアイドル歌手が、すぐ男とドロドロした関係になったり、ヘア丸出しの写真集など出版するからかも知れない。いずれにしても清純の定義はあいまいであり、現代の暴露メディアがその言葉のカリスマ性を奪ってしまったように思う。
吉永小百合こそ清純という言葉で形容してもいいただひとりの人、と私は信じているのである。私は元来サユリストではなかった。日活映画を盛んに見ていたころは、彼女は可愛くはあったが、すこし暑苦しくスッキリ感がなかった。
15年前彼女と喫茶店で会った。赤坂のTBSの真ん前の芸能人をよく見かける店だ。
当時私が勤務していた会社が近くにあり、その店にはよく行ったものである。たびたびテレビで見かける俳優や歌手に出会うことはあったが、吉永小百合ほどの衝撃を感じることはなかった。
その日彼女は和服を着ていた。ひとつ席を置いて斜め前に座った彼女の匂うような美しさに我を忘れたのである。そのころ彼女は40歳ぐらいであり、伴侶がいることはもちろん承知していたが、思わず清純という言葉が浮かんでしまったのである。ぴんと背筋を伸ばしたまま優雅な微笑を浮かべつつ30分ほどそこに座っていた。時折私と視線が合うと、目でわずかに挨拶をしてくれる(もちろんこちらの一方的解釈)ようである。彼女のいる一画だけ確かにスポットライトがあたっているような明るさがあった。
当時私は社長一派との抗争に敗れ、親会社に戻るか退社するか苦悩の真っ最中であった。合弁会社で勝手にやってきた私に、親会社での処遇がいいはずがない。
退社をしたとこであてもないのである。進退極まっていた。
吉永小百合に決めてもらおうと考えついたのだから恐ろしい。
しかし、彼女に直談判するほどの心臓は持ち合わせていないので、トリック(?)を使うことにした。辞める、と心に念じて彼女を見て、彼女と視線が合ったら答えはイエスということにしたのである。親会社の戻る、ときも同様だ。
この結果が現在なのである。辞める、に彼女がにっこり笑ってくれた!のである。
この話は人に言えないのである。とくに会社の仲間に言えない。ビジネスの決断はロジカルであれ、と日ごろ講釈をたれるからである。そして家族にも言えない。
なぜならこれは、いま流行りのストーカーそのものだから。
邪心のない聖なる決断を与えてくれた吉永小百合、かくして清純の人なのである。
離婚などユメユメ許されまじ。
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