■デイリーインプレッション:バックナンバー 2000/01/21~2000/01/24
2000年01月[ /21日 /24日 ]

2000年01月21日(金)

最初の会社を定年で辞めて、第二の人生を歩み出しているH氏とM氏の二人がそろって会社を訪ねてきた。二人は現在の仕事で何か関係しているらしい。
65歳のH氏と62歳のM氏と私との会話では、落ち着くところは老後の人生に関する話になる。「あなたもすこし遊びなさいよ!」と、H氏は私にハッパをかける。「趣味がないと老後は辛いよ」とけしかける。ゴルフを趣味とする彼は、私が勤務する会社で、バブル期のころ顧客から脅迫まがいで買わされたグアムのゴルフ場でもう何回かプレーしている。それにひきかえ私はグアムに一度も行ったこともない。ゴルフもやめ、夜の巷にもご縁がなくなって久しい私を彼はあざ笑うのだ。
H氏はある道路ゼネコンの部長であった。商品を売り込みにいって以来、交遊を重ねもう20年以上になる。世話をしたりされたりで友情が続いてきた。技術士の資格を持つ彼はそれを売り物に、中国地方のコンサル会社の役員に納まり、月の半分ほどそちらに新聞だけ読みにいくそうだ。給料は驚くほど高い。資格がものをいう好例だ。豊かな老後をすごしているせいか、最近の彼は特に鼻息があらい。信じ込んでいる人生訓の強調も声音が高い。
一方のM氏は、大阪系の専門商社を60歳で身を引いた。専務という番頭格であったが、息子が社長を襲うので旧世代は邪魔になったようだ。退職後重病を得てつい最近ある小社の顧問として復帰したばかりだ。今は往年の手八丁口八丁の大阪商人の彼ではない。「ぼちぼちです」と、おだやかな口調だ。彼とはH氏の紹介で知り合ったが、その紹介者よりも気が合い、酒好きの彼とは一時期頻繁に杯を交わしたものだ。週3日ほど職場に通うとのことである。それぞれの人生を一応外見上知り合っている3人の間には遠慮がない。勝手にくさして、そして励まして楽しい時間を過ごした。両氏は形はちがうもまあまあ満足なシニアライフか、とひとりごちたのである。
家に帰って妻に、二人の話をしたあと、私も早めにリタイアを、と口をすべらしたら、「親離れをしない娘がふたりもいることを忘れないでくださいね」と、きつい口調であった。やれやれ!


2000年01月24日(月)

一週間ほどスペインに出張することになり暫時おやすみをいただきます。
この老体に時差の後遺症が重くなければ、2月の3日から拙文でまたお眼を汚すことに。
初めての海外旅行は今から26年前のことであった。当時勤めていた会社がノールウェイの企業から技術導入することになり、その研修で派遣されたのである。同期入社の同じエンジニアと二人づれであった。
羽田には、社長はじめ主だった役員が見送りに、さらに私の母や兄姉が遠くから参集したのである。今考えると噴飯ものだが、そのころは奇異にも感じなかった。会社の社運を君らに賭けて、との社長の過分の壮行の辞とともにソ連邦を越えたのである。
この賭は見事にはずれ、その後の私の転職の因となるのであるが、短期政権に終わった好人物の社長は真に気の毒であった。
会社に提出のスケジュールを大幅に変更し、研修後ヨーロッパをゆっくり回って帰ってきたのは今も心苦しい。その間一切連絡もしなかった。鼻歌まじりにスポーツシャツで羽田の出口を出たとたん、見送りと同じメンバーがズラリと勢ぞろいしていたのには二人とも顔色をなくした。人事課長がそっと、航空会社に我々の帰り便を聞き出したことを告げ、明日は覚悟して会社に来いと怖い顔をして言った。旅行中一切連絡をしなかったことを責めているのだ。迂闊であった。
次の日、役員諸氏に平身低頭し、おわびに北欧諸国の小土産を配って歩いた。ひとりひとり小言をいただいたが、それでも減給などきびしい処分はなかった。文書偽造?の確信犯でもあったのに。
それから幾度か海外を旅した。一人の時もあったり、ツアーもあったり、ビジネスも観光もあった。
しかしこの26年前の最初の旅はいつまでも心に残っている。そのころ元気だった母が、得意気な顔をして会社のお偉方に挨拶して回っていた。それは苦労ばかりの母の晴れの舞台でもあったのかも。
その後私も下り坂で、大していいところも見せられず母を逝かせてしまった。
いずれにしても、あの日と同じ気持で行ってきます! でも今度はスケジュール通りに。


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