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■デイリーインプレッション:バックナンバー 1999/12/01〜1999/12/10
1999年12月[ /01日 /02日 /03日 /06日 /07日 /08日 /09日 /10日 ]

1999年12月01日(水)

早いものでもう師走である。街中のクリスマスセールの飾り付けが歳末の雰囲気を盛り立てる。なんだかんだと今年も終わる。結局1999年に私が存在したという事実だけが残っただけだ。などと似合わない哲学しても、温かいおでんで飲る日本酒の旨さに、直にわが脳はシビれてしまうのである。美味なるものは無常感を彼方へ追いやるまことに恰好の妙薬である。
新宿駅の地下広場にねぐらを置く無宿人の方々も、驚いたことにハイテクの恩恵を受けている。昨日暇にまかせてかの場所を歩いてみた。忙しく行き来する人の足元で、マットレスを敷いて横たわる30代の男、MDで音楽を聴いている。体でリズムをとりながら、目をつぶり、微笑みを浮かべている。隣のダンボールハウスに半身を突っ込んだ40代のオバさん、携帯電話で大声を上げている。まさかビジネスの話でもあるまいが、現世を捨てた(?)身に似つかわしくない気がする。奇なることにそのまた隣で坊さんが托鉢に立つ。一心不乱に何かの経を唱え背筋を伸ばして微動もしない。顔は笠で見えない。こちらは求道的だ。
さまざまな人間模様を描きつつ新宿駅にも師走がくる。
人はいろいろな過去を抱えて現在がある。仕事を棄てた(だろう)彼らにどんな曰く因縁があるのだろうか。一所懸命その日を生きている我々を得心させるだけの背景や理由があるというのだろうか。私の気持ちを正直に言えば、彼らの選択の自由を尊重すべきというリベラルな理性よりも、単純に不快な念を持つ感情が大きいのである。彼らをこうした状況においたのは、社会的歪みというより、彼ら自身の逃避に因るものと、どうしても冷たい視線になってしまうのである。いうならば私は政治家(!)にはなれない資質なのだ。
私は無宿人にハイテクが似合わないと無意識に思い込んでしまっていたようだ。
昔風な世捨て人を思い描いていたのかもしれない。そのうち、彼らはインターネットで情報交換し合うことだってあり得るだろう。社会的弱者のイメージも変わるものだ。ところで私は携帯電話を持たない。持ちたくないのではなくて、必要がないとして会社は持たしてくれないのだ。その意図を考える昨今である。


1999年12月02日(木)

昔英国のエリザベス女王が日本を訪問され、京都のある禅寺で、有名な高僧に、「無とは?」と尋ねたそうだ。Zenは欧米でも広く知られており、教義のキーワードである「無」を女王はご存知だったらしい。問われた高僧は「ゼロ!」と答えたそうだ。nothingではもちろん意味が通じないが、この「ゼロ」の解答を女王陛下はどう解釈されたのだろうか。不立文字を謳い、言葉ではなく高度な体感を必要とする禅問答に、「Oh, No !」と言ったとか言わなかったとか。
ゼロの発見?発明?は偉大なことと言う人がいる。数学的にゼロという存在が貴重なのだという。難しいことは分からぬが、確かに計算のときゼロという数字は頻繁に使う。
長さの単位のメートル、1、2、3、4、と整数メートルだけ数えれば999個でできている。1000メートルは1キロメートルである。キロは1000の意があり、いま流行のY2KのKだ。Yはもちろんイヤーである。
西暦2000年は20世紀であって、21世紀ではない。1世紀は100年で、西暦0年はないから、それぞれ100年、200年、などは1世紀、2世紀に入るのである。然るに前述のようにキロになるのはちょうど1000からである。
なぜ西暦2000年が21世紀とならないか奇妙な感じがしていることを説明するのにこうして長々と書いている。
この結論として、人間の生活には0がないが、数学にはそれがあるからではないかとの推論に至った。メートルでいえば0メートルがあるのである。従って0から999で1000個の整数となり、1000メートルはキロメートルのお仲間に入るのである。
冒頭の「無」と「ゼロ」の話は、人間社会の現実と、数学という論理の極にあるものとの相関を暗示しているようでまことに面白い。というのは付けたしの曲論で、実は来年の会社の年賀状のあいさつ文を、「新世紀を迎えて......」と間違え、刷りなおしに多大な労力と費用を発生させた私の恥ずかしいミスを糊塗するための、空しい心理的補償行為なのである。


1999年12月03日(金)

数ヶ月に一度、妻と近くの卸し売り市場に行くのを楽しみしている。
ここは通常、玄人向けの市場で一般人は立ち入れないが、毎週土曜日は時間を決めてオープンにしているのだ。
お茶や海苔などのまとめ買いが主だが、ついでに魚や肉や野菜などの日買い品コーナーをマメにのぞく。特にマグロにはふたりともご執心だ。時には安くて味の良い逸品にありつける。魚屋の店先の人ごみや活気も楽しい。上野アメ横の雰囲気だ。オヤジの威勢の良さにノーと言えずに、ついつい品数も増えてしまう。このところ一般客がずいぶん多くなった。
最近、ミナミマグロの水揚げでもめている。豪州やニュージーランド沖での漁獲量が国際協定で減らされているのだそうだ。水産資源の保護との理由である。日本は科学的データを出して、調査漁獲量としてもっと増やしてもいいはずと主張しているらしいが、2国は強力に反対している。その間隙を突いて、協定に参加していない韓国やフィリピンがこの海域で獲り放題獲っているらしい。
マグロの消費国はダントツで日本である。アウトサイダーの捕獲したミナミマグロは大手商社経由で、大量に安く日本人の口に入る仕組みだ。私の行く卸し市場のマグロはそうしたものなのだろう。消費者にとってはありがたいことだが。
日本の漁業関係者の切歯扼腕は想像して余りある。国際秩序を尊重し、国の指示を遵守する彼らの憤懣は、政府と死の商人とも言うべき商社に向かう。商社は合法の商売をして、消費者のお役に立っているのに何が悪いと言いたいところだろう。かくして衆目は政府の役人の交渉力に集中するのである。この話し合いをする国際組織の長に日本人がなったと新聞にあった。さてどうなるか?
この問題、本当は日本の消費者の決断にかかっているのである。国際協定(といっても限られた仲間内だが)を守って、日本船からの漁獲しか食しないと断言するか否かだけである。高くても仕方がないとあきらめるかどうかだ。消費者のエゴの問題なのである。
この点消費者運動に熱心な奥様方のご意見をぜひ伺いたいものだ。
私は?と問われれば、皆さんのご意見を真摯に拝聴して、その上で決断したい、とオブチる(!)ことにします。


1999年12月06日(月)

今年は面識ある人の訃報が例年に較べて多かった。何度か通夜や告別式の場所へ重い足を運んだ。それは自分の重ねた年齢の多さを思い知る寂しい儀式の場であった。死は他人ごとと思いつつも、自分にもいつか必ず来るとの宿命を感じさせる認識の場でもあった。
今年逝かれた人の中に、私の人生航路を大きく変えたひとが二人もいた。
T氏は、学校卒業後、勤めた会社が社運をかけて計画した新規事業の提携先のオーナーである。このプロジェクトの一員として参加した私は、氏の会社に技術習得のため半年ほど派遣された。その後、ノールウェイやデンマークの企業でさらに研修を受けたのであるが、そうした仲立ちも氏の尽力によるものであった。このプロジェクトは、残念ながらものにならず、方向を見失った私は外資系企業に転職をすることになるのである。
もう一人のT氏は、転職した外資が設立した合弁会社のパートナーであった。
自社のほかに氏は合弁の社長を兼務し、私は外資側の幹部として派遣された。氏のオーナーならではの自由奔放さに魅せられ、気がついたときは、私は外資の意向から大きく外れて本来の役目を忘れてしまった。やがて今度は愚かにも、氏の一族と争い、会社を辞める羽目になるのである。両方から石もて追われる惨めな転進であった。そのとき私への同情か、悲憤慷慨か、人生計算のできぬ3人が同時に辞め、仕方なく現在のささやかなビジネスをはじめることになったのである。その時、氏に対しては愛と憎しみの複雑な思いがあった。
二人のT氏の共通しているのは、徒手空拳で会社を起こしたオーナーであることだ。それぞれ経営手法は異なるが、戦後の高度成長の波に乗りつつ、身の丈の経営をしてきた。大言壮語の人ではなく、緻密で手堅いのはよく似ている。
私との出会いは、両氏の人生からみれば線香花火のようなわずかなものだっただろうが、私の人生には彼らの存在が大きかった。
両氏の逝去は、私の過去の曲がり角を思い出させ、いっときしんみりさせた出来事だった。瞑目合掌。


1999年12月07日(火)

私の家の右隣は70歳台の老夫婦二人暮しだ。
駅からやや遠い、古くに造成されたこの団地に移って10年に満たぬ我が家は新参者だが、この老夫婦は住むこと40年に及び、主のように古い。ご主人は自治会長など地域の役員も歴任し、市長に直接直談判するような骨のある(り過ぎる)人でもある。
しかし、不幸にも彼の妻は、脳梗塞を患い、会話も歩行も不自由で、早めにリタイアした彼は看護夫と主夫も兼ねている。
周りの家とも、彼のご指導!が行き過ぎ、何回か葛藤があったとも聞いた。わが妻と、触らぬ神にたたりなしの線でいこうと、新住人になったとき我が家の付き合い方針を決めたのである。
それがひょんなことから、不本意ながら深い付き合いに変わったのだ。
6年前のある日、几帳面で清潔好きな彼は、雨どいに溜まった枯葉を除こうとハシゴをかけて作業をしていた。足元が悪くハシゴがぐらつきだして、危険を察した彼はいち早く飛び降りようとした。アスファルト道路の上に足から着地はしたものの、老いの悲しさで横転し、腰をしたたか打ち、さらに後頭部も打撃した。
その場に偶然私が居合わせたのである。道路上に寝かせたまま、妻に救急車の手配を指示し、身体の不自由な奥さんに代わり、病院まで付き添った。医者の診断が出て、応急処置が終わるまでそこに残ったのである。幸い頭に別条はなく、腰の打撲程度で済んだ。その後腰の痛みで数ヶ月治療は要したが、もともと腰に古傷があったようだ。数日後千葉に住む娘さんが挨拶にみえた。
それから私達は、この老人夫婦から特別に目をかけてもらうようになったのである。事故数日後の大盛り舟の特製刺身が始まりで、旅行したといっては山のようにお土産をいただき、田舎から送ってきたといっては、果物や野菜をくれるのである。
これが6年間も続いている。我が家としても相応のお返しは必要で、旅行の時はまず一番にこの老夫婦のためのお土産を考える習慣がついてしまった。3年前に家を塗り替えるからと、妻の意見を求めにきたときは驚いた。娘の代役を望んだのかもしれない。彼は、妻が遠慮なくこれがいいと言った色に塗り替えた。
我が家の方針が、隣家に甘える(!)ことに変わったのは、少し気持ちは落ち着かないが、いろいろいただく実利(!)が捨てがたいからである。それとちょっぴり親孝行している気分もあるし。小人はくるくる方針が変わるのである。


1999年12月08日(水)

私は高校の同級会や同期会などに出たことはない。理由ははっきりしている。
高校のとき不良だったからだ。当時の言葉で言えばグレていたのである。いまどきの高校生からいえば、少しばかりダサいツッパリというところだが、あの頃はリッパに不良だった。その悪事の数々はいまさら暴露するのは偽悪家ぶるようで好まない。が、ほとんどが他愛のない大人の真似ごとと喧嘩ごっこで、今の私のイメージ(どんな?)を大きく覆す不祥事がなかったことは付け加えておきたい。
2年のとき、3年生の、当時番長と噂されていた凄みのある先輩に呼び出されて、来年はお前が番長だなと言われた。私のデカイ態度が少しは知られていたらしい。
不良少年の例にもれず、気が小さい私は態度だけはデカくしていたのだ。
我々の通っていた高校は、県下では少し名の知れた進学校で、こうしたツッパリ連中も比較的おとなしい。ここの生徒がタバコあたりで警察に保護(当時はしたのである)されても、人のいないところで見つからないように吸いなさいといって説諭なしで解放してくれる。甘えが利いたのである。
大学は悪仲間の全員が受けたが、私以外はそろってすべった。担任の先生に報告に行ったら、先生呆然として声もなく、おめでとうとも言えなかった。誰一人私が受かるとは考えていなかったらしい。授業の欠席がすごいからである。
後から、私は陰で勉強していたと講釈するヤツが現れたから可笑しい。
受験にヤマがぴったり当たったという理由で皆さん納得したようだった。
悪友の一人に12浪して私大の医学部に入ったヤツがいる。いま田舎でちゃっかり産婦人科に養子として入り込んでいるが、最近、彼から、当時の担任教師が勲?等かの表彰を受けることになり、東京で久しぶりに同級会を開くから今度こそ出て来いという電話があった。彼は高校時代ナンパでならし、私の硬派と路線は違うがよくつるんで遊んだものだ。行けたら行くといって確約は避けたが、今度は出席してもいいような気になっていた。その後2,3人の同級生だったと称する人から誘いの電話があった。クラスの仲間などすっかり忘れている。
結局行かずに逃げてしまった。後からその産婦人科から電話がきて、「おまえは来ないと思ったよ、テレやだからな。友達が違ったし、だいいち先生だっておまえのこと知らないんじゃないのか!。」と言いたい放題だ。
そんなことはない!おれは先生と同じ大学出たんだぜ!と言おうと思ったが呑み込んだ。次回こそ出てみよう!


1999年12月09日(木)

日本の少子化問題が深刻であるそうだ。確かに周りを見ると、結婚の高年齢化や一人っ子など現実に見受けられる。少なく生んで大切に育てるという流れはあるが、あえて言わしてもらえば、一人っ子だけはやめた方がいいと私は思う。
中国の一人っ子政策は、人口抑制のため致し方ない対策であろうが、知性はあるが、わがままで軟弱な人物が中国全土にあふれるようなイメージが湧いてきてならない。一人っ子を育てるのは、実に難しいという説があるのである。
いずれにしても日本の人口減、とくに近未来は若年層の縮小などは大問題で、政治的課題の一番目であるという政治家もいる。ヒト、モノ、カネと言われたうち、人的資源が減少するわけで、経済をはじめあらゆる分野の低迷を招く危険が予想される。外国人の受け入れはひとつの方策ではあるが、これによる文化的摩擦やトラブルを閉鎖的な日本人がうまく乗り越えられるのであろうか?
人口暴発を続けるインドや、他の開発途上国と対照的な問題を抱える日本の、この深刻な悩みに妙手はあるのだろうか。優遇税制やお金のばら撒きなどあまり効かないようである。中国とは逆に、一人しか生まない家庭には高額な罰金を課すというのはどうだろうか?避妊具の販売禁止なんてのもあるが。
俗説に、セメントを扱う現場で仕事をしていると女の子しかできないというのがある。これを聞かされた時、半信半疑だったが、周囲を見ると確かに女の子の方が多いようだった。私がある時期経験したプラスチック加工分野でも、スチレンの匂いのなかで仕事をすると、同様に、女の子ばかりという説が流布されていた。
確かに友人連中は女の子が多かった。友人にこれらの根拠をもっともらしく解説する福永法源!さんのようなひとがいるが、説得力は乏しいものだ。
時代錯誤の男子願望思想が屈折し、一種の軽いエクスキューズ(言い訳)として使われたと我がインチキ民俗学は解くのである。これら俗説は根も葉もないと確信している。
ところで私は、二人の子を持つが、ふたりとも女の子である。そして私はセメントもスチレンもたっぷり吸ったのだ。この複合効果が女の子の原因であるとの新説について現在検討中である。


1999年12月10日(金)

朝晩の寒さが身にこたえる季節になってきた。もうあとわずかで今年も終わる。
寒い時は温かな気候の土地がいいと思うが、それは人間の勝手というものだ。
ハワイは日本人のとって常夏の島で、永遠の楽園である。これは敗戦後、この島の観光振興を狙った米国の宣伝戦略のたまものだ。ハワイアン音楽とともに、盛んにここを夢の島と謳ったのである。以来、ハワイは我々の憧れのパラダイスとなった。
音楽の流行にもサイクルがあるという。一度消えたと思ってもまた何十年後かに生き返るのだ。これを繰り返す。しかし、今の若者の歌は保証の限りではないと言うひとはいる。私の学生時代、二度目のハワイアン音楽の波があった。高校時代、小林旭になりきっていた私は、ギターを持った渡り鳥ならぬはぐれ鳥だった。
はぐれ鳥は大学に入ると、ウクレレに持ち替え、その南の島の音楽を爪弾くようになるのである。二年生になったとき、友人と群れてバンドを結成する。このバンドが卒業まで続いたのは、今考えても不思議だ。バンドマスターは他ならぬ武闘派の私だったから。
実は、このバンドの真のリーダーシップはバンマスの私にはなく、一年後輩のスチールギター奏者にあった。ハワイアンミュージシャンの兄をもつ彼は、大学生になったときからいっぱしの奏者だった。彼の技量と意気込みにバンドは引きずられていく。彼の高慢さや強引さは、後輩の背伸びと知りつつも、よく衝突が起きた。技術の差は歴然とし、彼にかなわないから、こちらもストレスがたまる。
ちょうどできすぎた部下を持った上司のようなものだ。いくつかの危うい波があったが、どうにか最後まで行くことができた。我慢というものが人生に必要だと初めて知った。ひとつ年下の彼が私に教えてくれたものは大きい。
10年ほど前、初めてハワイを訪れた。学生時代から憧れていたその地に着いたときの私の感動ぶりに、同行者は驚き呆れた。ワイキキの浜辺で、ダイヤモンドヘッドを見て、マウイ島で、ハワイ島で、それぞれの歌を口ずさむ私は、心はあの学生の日々だったのだろう。永遠の楽園だと心底思った。
演奏バンドの人たちに話しかけ、私の好きな何曲かリクエストしても、みんな知らないと言う。ハワイで名曲のはずだが?
結局あとから、敗戦後の米国製(作詞作曲)現代ハワイアン音楽を、私は昔からの島歌と誤信していることがわかった。このことは私のハワイへの憧憬をいくぶん冷ましたのである。ハワイは遠きにありて想うもの!であろうか。
最近、このアメリカの観光戦略を沖縄に使えないものかと考えるのである。


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