昔英国のエリザベス女王が日本を訪問され、京都のある禅寺で、有名な高僧に、「無とは?」と尋ねたそうだ。Zenは欧米でも広く知られており、教義のキーワードである「無」を女王はご存知だったらしい。問われた高僧は「ゼロ!」と答えたそうだ。nothingではもちろん意味が通じないが、この「ゼロ」の解答を女王陛下はどう解釈されたのだろうか。不立文字を謳い、言葉ではなく高度な体感を必要とする禅問答に、「Oh, No !」と言ったとか言わなかったとか。
ゼロの発見?発明?は偉大なことと言う人がいる。数学的にゼロという存在が貴重なのだという。難しいことは分からぬが、確かに計算のときゼロという数字は頻繁に使う。
長さの単位のメートル、1、2、3、4、と整数メートルだけ数えれば999個でできている。1000メートルは1キロメートルである。キロは1000の意があり、いま流行のY2KのKだ。Yはもちろんイヤーである。
西暦2000年は20世紀であって、21世紀ではない。1世紀は100年で、西暦0年はないから、それぞれ100年、200年、などは1世紀、2世紀に入るのである。然るに前述のようにキロになるのはちょうど1000からである。
なぜ西暦2000年が21世紀とならないか奇妙な感じがしていることを説明するのにこうして長々と書いている。
この結論として、人間の生活には0がないが、数学にはそれがあるからではないかとの推論に至った。メートルでいえば0メートルがあるのである。従って0から999で1000個の整数となり、1000メートルはキロメートルのお仲間に入るのである。
冒頭の「無」と「ゼロ」の話は、人間社会の現実と、数学という論理の極にあるものとの相関を暗示しているようでまことに面白い。というのは付けたしの曲論で、実は来年の会社の年賀状のあいさつ文を、「新世紀を迎えて......」と間違え、刷りなおしに多大な労力と費用を発生させた私の恥ずかしいミスを糊塗するための、空しい心理的補償行為なのである。
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