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■デイリーインプレッション:バックナンバー 1999/11/01〜1999/11/10
1999年11月[ /01日 /02日 /03日 /04日 /05日 /08日 /09日 /10日 ]

1999年11月01日(月)

新聞社がくれる月イチの小冊子に、風呂の入り方なるものの記事があった。
いまさらこの年になって風呂の入り方なぞ変えたくもない。が、のどかなイラストにひかれ、つい読んでしまった。どうもお湯はぬるめがいいようだ。41度を境に、温度が高くなるほど血圧、心拍、胃液分泌など危険サイドに傾くという。
ぬるめのお湯に、5、6分の半身浴を2,3回繰り返すのが身体によいそうだ。
子供のころ親からよく、「肩までつかりなさい、そうしないと風邪をひくよ」とよく言われたものだが、間違いだったということか。
とにかく、昔からの生活の仕方全般が、「健康に良いか」という尺度で改めて見直されている。日常坐臥いかに昔は馬鹿なことをやっていたかという啓蒙記事が盛んだ。その度に、愚かな我々は長年親しんだ習慣を見直すことになる。
歯磨きを朝起きがけのみ実行していたナンセンスは、金属冠に覆われた虫くい歯となり、若いころの愚かな生活習慣の名残りだ。わが父母の無知は時代のせいにする方が親孝行だ。
塩分を減らせ、米飯を食べ過ぎるな、ゆっくり、楽しく食べよ、など食事に係わる見直しはだいぶ昔のことだ。いま我々は健康のために食事をする。腹いっぱい食することは許されない。酒は一日一合までなら長生きする。ワインなら動脈硬化に効くからさらにお奨めだ。無味な野菜を馬のように大量に食べなければいけない。などなど。医食同源の思想が満ちている。
食事以外に、あらゆる立ち居振舞いが健康というキーワードで解釈される。健康の番人である医者の存在感はますます大きくなり、医者の人格はますます低下する。モルモットで健康になるためのヒントを発見し、それを人間に移転してくれる医学者は、まさに「ねずみの使徒」だ。医者の守り神はねずみ大明神にちがいない。
さて、ねずみ小屋の住人である私は、かあっと熱い風呂に入って、さぶチャンの唄でも一節、上がってイカの塩辛で冷えたビールをグーと行こうかい!
寿命3年短縮、南無阿弥陀仏。


1999年11月02日(火)

商工ローンの非人道的な貸し金取り立てが問題になっている。
ちょっと前は、サラ金取り立て地獄の話題があった。これは自己破産という駆け込み寺のおかげか、それとも取り立て業者がおとなしくなったのか、最近はマスコミも取り上げることが少ない。サラ金業者も上場し、高収益企業の代表だ。外資の進出も盛んだ。新卒の採用も多く、昔の悪役のイメージはない。
大体貸し金取り立てに優しいやり方なんぞあるのだろうか?と考えてしまう。一昔前のやくざ屋さんならいざ知らず、商工ローン社員諸君は過激なレトリックで債務者を威圧し、萎縮させ、踏み倒しを防ぐしかないだろうと変な同情もしてしまう。金を借りて返さないのは約束違反であるし..............。このことは程度の問題なのだろう。
私も子供のころ、身内の借金によるドタバタ劇を観たことがある。
手広く洋服仕立て業を営んでいた大叔母の一家が倒産した。娘の日本舞踊に入れ揚げた結果だ。幼いころから筋が良いとされたその娘の、リサイタルや披露目の会に金がかかり過ぎた結果との噂だった。親戚中からお金を借りまくっていたようだ。金のない我が家からは少々だったようだが、今でも定かではない。母の実家は、金貸しへの連帯保証で、山の田畑のかなりを失う羽目になった。怖いおニイさんも来た。当然のごとく大叔母一家は親戚から村八分(!)となった。
ところが、こともあろうに、その一家が債権者を逃れて我が家に隠れ住むことになった。母が見かねて侠気を出したのだ。
急に膨れ上がった家族と、親から誰にも言うなという秘密ごっこは、当時中学生になったばかりの私には一大事件だった。窓を締め切った部屋で暮らした息の詰まるような長い半年だった。しかし、当時女子高校生だった舞踊家(!)の華やかな愛くるしさに心ときめかすオマケがあって、実は楽しい期間だったのだが。
その後、東京へ出た一家は、日本舞踊を創家し、あこがれの少女は宗家となり、それなりになった。後年、私が東京の大学に通うころ、炊事なぞしたこともない彼女が、二、三度手作りの料理に招いてくれたことがあった。感謝のしるしだったのだろう。しっとりと美しい大人の女性になっていた。
借金地獄の話を聞くたびに、私はいつも、あの少女舞踊家と閉めきった部屋で過ごした甘美な日々を思い出す。もっともそのとき私は彼女から幼い坊や扱いだったが。


1999年11月03日(水)

最近、通勤車中で驚くことがある。衆人の中、若い女性が手鏡をのぞきながら化粧したり、髪を直したりすることだ。それとパンやおにぎりを食べることだ。
4人がけの遠距離列車ならいざ知らず、満員の通勤列車で、そんなことをする若い女性は昔は皆無だった。これも欧風化のひとつだろうか?
化粧することは舞台裏を見せることであり、場違いなところで食することは食作法からはずれるものとの思想は、もはや過去になりつつあるのかもしれないプライベートな行為は、他人の存在によって左右されるものではないとする女性自立の問題なのか、ただの羞恥心欠如症候群なのか?いずれにしても、あまり格好の良いものではないと思うが如何?
現代の若者は、家庭内において個室を与えられるのが普通となった。そのプライベートな部屋ではまったくの自由を満喫できる。どんな格好をしようと、何をしようと思いのままだ。家庭の中にリビングルームと称する家族団欒、言うならば家族コミュニケーションの場は設けられている。がしかし、多くはそれが十分機能していない。同じ物理的空間で家族が共に呼吸をし、考え、悩みという一体感がなく、お互いに感じ合うといったスキンシップがなくなってしまった。
外から帰れば自分の部屋に直行、ただちに自分の世界に閉じこもる。
自分の部屋の外は、公の世界というのかもしれない。家のリビングでする食事も、家の洗面所でする化粧も、電車内と同じ公の場所での行為という感覚なのだろうか? 自分の部屋のドア一枚がプライバシーを守る扉ということに違いない。かくして、自宅で暮らそうが、アパートで暮らそうがたいして違わなくなった。食事が便利か、掃除付きかの違いだけとなった。
私の家も、娘という二人の下宿人を抱えている。ひとりはいま長期の留守で、いま一人は玄関と部屋をつなぐ廊下をひたすら朝晩行き来する。大家は、外の世界と秘密の個室の中間に快適な空間を創るべくいろいろと策を弄するが、せせら笑いを誘うだけだ。大家はまた、下宿人が電車の中で、化粧したり、食べることだけはしないでほしいと祈るのみだ。


1999年11月04日(木)

日本人は桜が好きだ。ぱっと咲いてぱっと散るいさぎよさが無常のあわれを誘うからと言われている。この点から言えば、いま長命の日本人が、短命な桜の花を愛することは現代のアイロニーと言えるだろう。人の世のはかなさを桜に喩える風雅人はもういない。人生はもはや永いのだ。桜の開花は散りゆくことへのあわれではなく、華々しい生への讃歌となった。
一方、江戸の人々から嫌われたという、だらだらと咲きつづけるアジサイは、残醜も現代びとにとって気にならないものとなったようだ。いずれにしても寿命のはかなさを嘆くには、平均余命とやらが長すぎる。
いつか書いたように、私は両親の死に目に会えなかった親不幸者である。母の死の1年後、子に先立たれた逆縁を嘆いていた母方の祖母が逝った。父の病の関係で、子供のころの我が家を物心ともに援助してくれた祖母の存在は、私にとっても大きなものであった。職場で祖母危篤の報を受けると、今度こそとの思いを胸にふるさとに向かった。そして系に連なる人々が集まるその場にどうやら間に合った。
祖母は私をことのほか愛してくれたように思う。性格が似ていて、気が合ったからではないかと今にして思うがどうか。不憫と思っていたのかもしれない。
詰めていた近所の医者が、「今日が峠でしょう」と断言する。別室で通夜だ葬式だと打ち合わせも始まった。その夜は何事もなく過ぎた。夜中に目をあけた祖母が私に向かって、「からだが引き込まれる。沈んでいく。早く逝きたい。」とつぶやいた。しかし、次の日、その次の日も祖母は現世に留まる。集まった親戚の者も、ひとりふたりと家に帰りはじめた。残る私は祖母の下の世話まで受け持つ奮闘だ。2年ほど寝たきりだったので病状の急変がわかりにくい。
1週間たったとき、医者が首をかしげた。
「以前より回復していますね。不思議ですね。お孫さんの励ましですかね?」などと頼りないことを言う。事実、顔色もよくなってきた。
しかし、仕事をこれ以上放って置くわけにもいかず、私は職場に戻った。また何かあったら電話をくれと言って。1週間の介護で疲れ果てていた。
それからちょうど1ヶ月後、祖母は死んだ。私を呼ぶなと言って目をつぶったという。私が付き添った1週間が、「楽しかったよ」と言っていた、と叔母が葬式の当日ささやいた。
85歳の大往生だったが、結局私は死に目に会えなかった。祖母は往生際が良かったのか悪かったのか?


1999年11月05日(金)

日本でも、インターネット業界での若い人のサクセスストーリーが喧伝されている。仲間と14年前に創業し、亀の歩みにも似た超スローの伸長(?)ペースのわが社から見ると、それらベンチャーの成長スピードは驚嘆すべきものだ。時代の波もあろうが、その波に乗る若き企業家の経営マインドの欧米化も大きい。
日本の経営者はいままで、資本家を強く意識せずに来れた。大企業は株式の持ち合いにより内政不干渉とし、物言わぬ一般株主のもとに胡座をかいてきた。小企業は資本家イコール経営者が普通だ。経営資金はもっぱら銀行からの間接調達であったから、経営者は株主への配慮のプライオリティーは低い。この日本型資本主義が戦後の高度成長を牽引してきたのだ。
私が勤務する会社で、数年前から英会話教室を週1回続けてきた。当初は8人ほどの社員が参加したが、数ヶ月後には予想通り、海外旅行好きの若い女性一人だけとなった。結局社員の子弟に枠を広げ、4,5人のクラスに落ち着いた。
1年半ほど前、ニュージーランド人の英会話の先生が突然やめたいと言い出した。
24歳の若い男性学徒で、バイオテクの研究をしていると聞いていた。
友達とインターネットビジネスを起業したのだと言う。同郷出身の友は、日本の大学を出て、日本女性と結婚しているらしい。
彼らの新しい事務所を訪ねたとき、フロアに敷かれた布団から起き出してきたその友に初めて会った。家に帰らず徹夜をしていたという。そして私に、レンタルサーバーの事業計画を熱く語り、何らかの援助を期待している風でもあった。コンピューター以外なにもないガランとした部屋と、汚らしい布団にそのときの私は腰が引けてしまっていた。その後数回会ったが、彼らの将来に対しネガティブな思いをどうしても捨てることができなかった。
半年ほどの後、彼らが米国のインタネット広告会社と提携し、華々しく業界に打って出た。そして、日本のベンチャーキャピタルと米国の本家から資本を入れ、形を整えてしまった。そして今期売上が10億を超えるという。わずか1年である。
資本を常に意識し、経営のプロをめざす彼らに対して、そのどちらにも徹底できない私の資本主義感覚はもう古いといわざるを得ない。彼らのビジネスのおこぼれに預かれなかった無念さより、身についてしまった固定観念と怯懦がうらめしいのだ。


1999年11月08日(月)

英国に行くことにしました、とのメールがE子から入った。月末に発つという。
やっと決心がついたらしい。それにしても大胆な決断である。
E子とは、近くのカルチャーセンターの英会話クラスで一年前まで一緒だった。
私にとって、中国語クラスに4年ほど籍をおいた後の暇つぶしの英会話教室だ。
向上心のない、しかも従順さのない嫌味な生徒の一人だったろう。
E子はつややかな黒い髪が腰まで伸びた、色の白い、ややふくよかな、目立つひとだった。よく通る声は少し甘えがかったようで、やや耳障りな気もしたが。
彼女が40歳になると聞いてびっくりしたものだ。よくて三十かと思っていた。
英会話の先生の一人が、私と同年代のオヤジで妙に気が合い、ときどき酒を酌み交わす仲となった。私の発音や言い方を、以来、彼は直すことをしなくなり、うっとうしくなくて楽になったが、私の英語はそれからちっとも上達しないことになる。
二三度我々に参加した彼女の断片的な話から、彼女の人生を知った。
彼女は実家の鉄工所の切り盛りをしているらしい。父親が創業した家業を、兄と手伝っているうち、ひとり年を重ねたらしい。10代の頃から12年続いたあるミュージシャンとの愛も、こちらの献身だけで終わった、と懐かしそうに語った。
癌に倒れた母を、「こんなときに病気になりやがって!」とやさしい言葉もかけない父親に憎悪を持っていたという。母を放ってはおけないという気持ちが彼女をささえた。いまご多分に漏れず家業の鉄工業も不況だ。
そんな彼女がすべてを捨てて、英国に行く。1年ほどは語学学校で勉強の予定だ。その後は、どこに行くかわからないという。500万ほどの貯金でなんとかするわと大胆だ。どこででも生きていく自信があるの、とこれまた明快だ。
くだんの米国同世代子が、二人で送ってやろうじゃないかと持ちかけてきた。
そして最後の晩餐をイタリヤ料理店で持ったのだ。
夫にいじめられてきた(?)母親に、もし昔に戻ってちがう人生を選べるとしたらどうする?と尋ねたら、「やっぱり、今のお父さんを選ぶわ!」と言われたのがショックだった、と彼女は語り、自分の人生は自分で選ばなくてはと思ったと言う。日本にいたら親の人生に参加をしてしまう、だから外国に出なくては、と主張する。同世代子はそうだそうだと盛んにうなずく。娘ひとりを米国無宿の旅がらすにしている私は複雑な心境だ。
そう言えば、私も大学のころ、ギターを抱えて放浪の旅にでた!あのときお金がなくなって北陸路の3週間で終わったが。結局これはお金の問題だ。
お金があれば自由が買える!彼女には500万円分の自由があるのだ!
旅人よ、お金が尽きたら帰っておいで!


1999年11月09日(火)

立冬も過ぎて、ここ関東も本格的紅葉シーズンに入った。
今年は赤がいまひとつと言う人と、いや例年より鮮やかだと言う人がいて、紅葉の景観ランクはよくわからない。土日になると、名だたる観賞スポットは、壮大な自然芸術を求める人々で満杯だ。
私も先々週、紅葉を求めて群馬、栃木、長野と小旅行をもった。妻の年老いた父母と一緒の、ゆっくりとした4人旅であった。泊った伊香保温泉郷は、まだ紅葉には早かったが、宿のたっぷりした湯量と、急な石段の周りに広がる昔ながらの温泉情緒に、八十五の父と七十七の母は満足気であった。親孝行とは子供の勝手な自己満足である、といった皮肉家に同意するとしても、親との遠慮のない旅は素直に楽しい。
両親を送りとどけるため上田から松本に抜けた。途中の信州の山々の紅葉がちょうど見ごろで、期待した通り目の保養ができた。「来年も見ることができるかな?」と言った老父の温顔に秋のさわやかな日差しがそそぐ。老父母に対するわが夫婦のささやかな願いは一緒だ。
松本の家では、渋柿とりの手伝いをする。高く伸びた柿ノ木の果実を取るには、父は老いすぎた。妻と子供に帰って、きゃあきゃあ言いながら夢中で柿を採る。
道行く人が、なにごとかと振り返るほどの騒ぎだ。ふるさとはもう若くないわれわれ夫婦さえも無邪気にさせる。
渋みを抜くため焼酎に浸した柿をおみやげに、中央道を東京に向かう。
恒例の2泊3日の秋の旅が終わった。帰りの道中での妻は機嫌が良好で、いつも見せない心遣い(!)なぞ見せる。くすぐったい気持ちだが、自身の親に素直になついている私の無邪気さに満足しているのだろうと想像する。
来年の介護保険の実施を前にもたついている政局を見ても、私と妻に切実感がないのは、老父母が信じられないくらい元気であるからだ。用介護の日がいつか来るに違いないが、その日が一日でも遅いことを祈るだけだ。来年の春は海の近くに、と老父母に言い置いてきたが............。


1999年11月10日(水)

昼日中でも街なかのパチンコ店は大繁盛だ。
ネクタイを締めたサラリーマン風から、子連れの若妻までいろいろである。この業界不景気には関係なさそうだ。素人企業が儲かるからと手を出して、ヤケドをしたケースもあるそうだが、私の知るところ倒産の店はすくない。北朝鮮の貴重な資金源とのうわさもあるが、週刊誌の記事以上の信憑性はない。
それにしても油を売っている勤め人が多い。セールスマンの息抜きだろうが、これを見ると日本企業の労務管理は甘いものと言わざるを得ない。外勤の労働密度の低さを証明するようなものだ。もちろん成果給がベースのセールスマンや自営業は、昼間何をしようととやかく言われる筋合いはないと反論するだろうが。
いずれにしても、経営者側に位置する私は、こうした会社遊民にもろ手を上げて歓迎というわけにはいかない。
今年の春、ひとりラスベガスを旅した。往復で5万円を切った飛行機だったので、無事つけるものかと心配したが、ファーストクラスと区別なく米国の地を踏ませてくれた。ラスベガスのホテルと食事は安い。彼らはギャンブルでお金を使ってほしいから、安くするのだ。カジノは酒やジュースはタダだ。金髪美女にねだればいい。安いバス旅行でグランドキャニオンならぬレッドキャニオンなるものに行った以外、ショーとカジノで放蕩(?)をしてみた。
米国人あこがれの娯楽の殿堂で、ひとり人生を考えてみたいという崇高な目的は、時差とアルコールとスロットマシーン疲れで、哲学する脳みそが死んだため、単純な金銭収支の算数脳のみの活動に終わった。日本人の愛するパチンコと米国人のスロットマシンは似て非なるものかの解明が、まさに私の哲学的テーマなのだ。
日本からパチンコを輸出し、広げようとしたが、どうしても米国には根付かないのだと言う。スロットマシーンには勝てないのである。一方、韓国ではパチンコが熱狂的に迎えられたらしい。急激に拡大するきざしを見て、恐れた政府が「亡国遊戯」と禁止した事実がある。
スロットマシンも、ジャラジャラとコインを出す必要のない記憶可能の機種が普通となっており、静かに楽しむひとも多い。それに引き換え日本のパチンコのにぎやかさは恐ろしいほどだ。どうにかならないものだろうか?
学生時代、「パチの○×」と鉄人ぶりを謳われた私のパチンコ歴は、この20年空白のままだ。
ラスベガスでの戦績は、ここしばらく海外旅行は遠慮せよとの神の指示に結びつく結果となった。


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