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■デイリーインプレッション:バックナンバー 1999/09/13〜1999/09/20
1999年09月[ /13日 /14日 /15日 /16日 /17日 /20日 ]

1999年09月13日(月)

たいていのサラリーマンは役員にはなりたいと思うのではないか。
社長は責任が重いばかりで、報酬も米国のように超高給というわけではないからあわないと、はなからおりる人もいる。会社役員という現世のステータスは欲しいが、厳しい責任や使命は勘弁してほしい、という真に小市民的思想に基づく。
いま、中高年の希望退職や解雇が云々され、この世代の悲哀が世間の共感を呼ぶ。
会社のお荷物とされた人々の怨嵯の声が、新聞に載らない日はない。
サクセスの道を歩んだ取締役にも遅れて退職の日はくる。なれなかった人より多少割増の報酬と歳月を得たあとに。
一部上場会社のQ社は、最近総合商社の看板を下ろし、大胆なリストラ策を発表したK社の傘下に入ってもう10年になる。その間着々とK社は自社出身の役員で Q社を固めてきた。そしてプロパーの役員は私の旧知のA常務だけとなった。
ある日、内規により、常務定年になるという彼から一夕の誘いを受けた。30年に亘る仕事付き合いで気心も知れている。営業畑だった彼は、会社生活を大満足で終えることを、引退後は町内会を活動の場とすることを熱っぽく語った。まことに堂々たる40年の会社生活であった。その晩は遅くまで飲みつづけた。
5日後彼から電話があった。驚いたことに彼が社長に内定したのだという。固辞したのだが、どうしてもということらしい。声もなかった。
数日後の新聞に、銀行からの巨額な債務を帳消ししてもらうK社は、関連会社への役員天下りを控えると同時に、子会社もプロパー優先に人事をすると記していた。
得心する。
いま彼は、総会を経て正式に社長となり、挨拶のため忙しく飛び回っているらしい。町内会は当分おあずけですね。


1999年09月14日(火)

停年後の第二の人生に、またビジネスを選ぶ人もいる。
財閥系の一流化学会社の部長を、62歳でリタイアしたM氏もそうだった。
奥さんの反対をよそに会社を起こしたのだ。一橋出身の氏は、大手企業の要職にある同級生からの厚志も加え、1億円ほどの資金を用意した。
氏は石油化学製品を永く扱ってきた反動なのか、無機化学品であるセメントに魅せられてしまった。フェロセメントという技術のとりことなったのだ。
これは、金網でかたちを造って、セメント(モルタル)をぬりこんで成形する手工技術のひとつだ。この技術でつくられたヨットやボートなど知る人は知る。
世界の文献を片っ端から集め、技術のライセンス取得にも高い金を払い、また自分のアイデアの特許出願で顧問弁理士の生計を支え、そして資金も底をつくころ、私は氏と出会った。
当時の社長が、氏とやはり一橋で同期だという縁で頼られたらしい。技術役員はうさんくささ(?)に判断を逃げてしまった。このとき新規のプロジェクトが失敗に終わって、多少すねていた私は、まともな評価はせぬまま、氏のいう通り契約への段取りを進めた。半年後から、東京都内の災害時の初期防火タンクとしてそれなりに売れだしたのは驚いた。氏が大手ポンプメーカを引き入れたのが理由だったろう。その後10年ぐらい細々と売れた。
ある日、勧められるまま氏のお宅に伺ったとき、パート先からわざわざ帰ってきたという色白で上品な奥さんが、氏が席を退ったすきに、「夢だけでは食べていけませんのよ、あの人は満足でしょうけれど..........。」と疲れた顔で言われたのには言葉も出なかった。
停年後の人生は、本当は奥さんのためにあるのかも!


1999年09月15日(水)

私の好きな話がある。いつか紹介した「チキンスープ」にあったアメリカの話だが。
勝気でわがままな女の子がいた。成長するにつれて、だんだん親に反抗し、口も聞かなくなるのは、まったく日本と同様だ。こういう時、父親は怒鳴りつけるか、舌打ちして黙ってにらみつけるしかないのも同じだ。
母親は、その母性のなせるわざか最後まであきらめない。しつこい(!)のだ。
その母親は、口で云う代わりにその都度手紙を書いて娘の机に置いた。
読んだか、読まぬか分からぬが、翌日になると手紙はなくなっていた。そのたび娘は少しは態度を改める風でもあるが手紙については何もいわない。
学生時代も過ぎて、職を得て、そして娘は恋人を両親の前につれてきた。結婚すると一方的に宣言をしたのだ。もちろん反対だ。気に入るわけはない。
子供ができたと知らせてきたとき、両親の気持ちは複雑であった。祝福したいのはもちろんだったが..........。
娘から初めての手紙がきた。いままでもらった母親からの手紙にどれほど勇気づけられ、教えられたかを素直に語ったものだった。そして、この手紙を自分の娘に宝物として伝えたいと結んでいた。この手紙に母親は感涙にむせぶのだ。
実は、私はこの話が好きなのではなく、身につまされるのだ。
信念をもって語る思想もない太平楽の私と妻に、この娘そっくりな娘が二人もいて、親の意見ははなから受け付けない。
こうなると、せめて妻の手紙にでも期待するか!そう今なら電子メールかも。


1999年09月16日(木)

東ティモール独立に揺れるインドネシアで、目立たないひとつの問題がある。
それは無制限に使われ、国民の健康を損ないつつある野放しのDDTのことだ。マラリアの蔓延のもととなる蚊を退治するために、辺りかまわず撒布しているというのだ。これが一番有効な対策と政府当局は弁明している。
DDTは、敗戦後、進駐軍が子供たちの頭にシラミを殺すため撒布したように、日本も身近に使ったものだ。田畑に蓄積した量も危険域だという学者もいる。なにがどう危険なのか知らないが、因果関係のはっきりした悪性の薬品にはちがいない。
毒をもって毒を制するというが、マラリヤ防疫に有効な方法は別にないものか?
私のあばら家に毎夜悲鳴が上がる。ほぼ定刻、ゴキブリが現れるのだ。暑さのせいなのか、かれら好みの食生活をしているのか想像の外だが、とにかく連夜のご訪問だ。娘が居合わせたら、3軒先の悲鳴になる。いちど、壁を伝うゴキブリが私めがけてムササビのごとく飛んできたのには肝を冷やした。
妻は蠅タタキでゴキブリを一発で叩きつぶす。手練の早業だ。新聞をもってあちこち追いかけ、結局は逃がしてしまう私の優しさより臆病を、妻はせせら笑う。
最近、妻は左手にスプレーをもって、さっとひと吹き、敵を弱らせてから打つハイテク戦法に変えた。これがまた命中率が高い。
ところで、このゴキブリスプレーの臭いがまたすごいのだ。娘はこれは、ゴキブリより人間を殺すものだと信じてガスマスクの着用を主張する。同感である。
インドネシアのDDTではないが、過剰な毒をもって毒を制する方法が、この平和な日本でも過剰にあることが問題なのだ。


1999年09月17日(金)

自分ができなかった分、子どもにさせてやりたい、と考える親は多いはずだ。
たとえば、大学(院)へ行けなかったから、留学をしたかったのに、若いうちに海外を見たかった、スポーツをする時間がなくて、などなど自分の過去の逸失利益を自分の分身で取り返そうとする。言うならば親子のバトンリレーだ。
親は子どもがそれらを手に入れることで大満足し、子どもは特段の感慨もないまま受益者となる。大概の逸失利益はただ貧しい時代ゆえに生じたものだった。
豊かな時代の子どもにもまた、新たな「できないこと」すなわち逸失利益が生まれるのだろう。これは我々と違って、やりたいこと、欲しいものを見つけにく時代だからだ。若いときに見つけられないまま、彼らも歳をとる。
欠乏していたものを充足することに熱中していた時代は、すくなくともやるべきことがはっきりしていた。ひと仕事を終えつつある私の世代は、本当は極楽トンボなのかも。
今の親は、多少フトコロが温かくなっており、やり残した事業(!)を子どもで帳尻を合わせるという DNA(!)の指示もあり、子どもへの投融資は甘く、言いなりだ。ずさんな計画に、変更の指摘もできないまま申請通り実行される。
自身に投資をしよう、子どもは自分の力で生きよという欧米型の親もいるだろう。
過去の逸失利益を、遅れて自分で取り返そうという元気な人だ。
いずれをとるかは個人の好みの問題だ。過保護は子どもをスポイルするという仮説は、スキンシップの不足が非行化の主因という仮説で対抗する。
私の場合、身の程知らず、明白に子どもへの過剰教育投資だ。担保物権の資産価値(修得教養)は極めて低く、さらにまったくのずさん経営(勉学不足)。不良債権(成績)の山。ああ!過保護は.....云々の仮説を証明しているのだろうか?


1999年09月20日(月)

小説家になれると思うときが誰にでもあるという。
しかし、その道を選ぶひとは少なく、多くは読者にまわる。現実的に生きなければならないからだ。幾つになっても、まだ小説がかけるはずと考えている自信家も少なからずいる。綴り方教室に始まった、日本の作文教育は成功したのだろう。
同様に、発明家はだれでもなれると考える人も多い。学生から主婦まで一獲千金を夢見て、アイデア創出にはげむ人も少なくない。
私はコンクリート技術者で、技術や商品の開発を生業としている。たいした発明もせず、この年まで開発者として生きてきた。同僚や取引先の付き合い特許出願が40件ほどあるが、ひとこと口をはさんだ程度の名誉(!)共同発明も多い。
生産財などの中間財は、消費者向けのノベルティとちがって、チームプレーとシステムで開発をするのが常であり、ひとり自己完結型の発明は少ない。
25年の昔になる、私の特許出願第一号は職務発明ではなかった。
個人で弁理士に依頼し、拒絶査定をもらうまで、すべての費用を自分で負担した。
松下幸之助の二股ソケットや、ブリジストンの地下足袋、亀の子タワシを夢見た私の大発明(!)もあっけなく水泡に帰した。当時それこそ寝食を忘れて打ち込んだものだった。言うのも恥ずかしいが時効だからお教えしよう、私の発明。
それは、楊枝(ようじ)入れだった。厚紙を折りたたんで、楊枝2本をさしこんだ、いうならばブックマッチ風なファンシー雑貨だ。レストランの箸置きやマッチの代替品を狙ったものだった。洒落たデザインだったが(?)..........。
最初の商品ロットを行きつけの飲み屋と食堂に、結局、無料(!)で配って終わった。このときの授業料〆て50万円が、その後の私の授業料だった。


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